淀川・大和川流域古地形の概念

 河内平野は、約7000年前には河内湾という大きな内海であった。これが次第に淀川・大和川水系の川による流送土砂により埋まり、河内潟・河内湖を経て現在の河内平野に至る。
 奈良盆地の水を集め、金剛・生駒の山地に峡谷を刻み流れてきた大和川は、河内平野に至り、東と北を山に遮られ、西も南北に細長い断層地形の上町台地という微高地があるため、石川をあわせた後、自然地形では北に流れ、河内の低湿地を幾つかの川に分かれて乱流し、二つの大きな池を造り、そこからの水は西流し今の大阪城北辺で淀川と合流し大阪湾に注いでいた。これは近世初頭に分離工事が行われ大和川の河道は堺方向に付け替えられた。
 一方淀川は琵琶湖から流下し宇治で京都盆地に出る際巨椋池という広大な遊水地を広げ京・大阪間で桂川・木津川という大支流を入れ大阪平野を貫いて流れるという姿は基本的に現在と変わらないが、最下流部の大阪市において近代に放水路を作り河道を変える大きな改変を受けた。また、巨椋池も昭和初期に埋め立てられた。

自然地形としての淀川・大和川水系の図
近代以前の淀川・大和川の川筋

 近畿地方には早くから人が定住し耕作を行ったと思われるが、河内平野における弥生遺跡の大部分は平野中心の山地・丘陵・台地の麓に分布する。大和川が平野の東南部から西北方向に開く扇状地に流れる幾つもの乱流小河川から水が引かれた水田の存在が考えられる。

 淀川・大和川水系の治水の歴史は古く、5世紀・仁徳朝11年には淀川下流部に茨田堤が築かれ、難波の堀江が開削された。この堀は、上町台地北端から広がる天満砂堆を開削したもので、淀川の南派流が大和川に逆流し氾濫するのを防ぎ、水を海に直接落とそうとの意図を持っていた。
 大和川築堤(長瀬堤)は仁徳朝13年に行われたとされるが、762年説もある。また、770年には同じく大和川に渋川堤が築かれたとされる。
785年には、淀川の洪水吐として三国川が開削され、吹田市津屋に掘られたそれが神崎川の源頭となる。
788年、河内の水害対策に天王寺付近の上町台地を開削し大和川・淀川分離工事が計画されたが、失敗に終わっている。
 中世には、淀川下流部において盛んに輪中が作られ、段倉や環濠が生まれた。しかし、輪中は大河川の氾濫には保たず、江戸初期の本格的な淀川・大和川分離工事である「大和川付替え」を待たねばならなかった。
淀川河口部は、河村瑞賢により改修がなされたほか近代に至り大規模な捷水路工事が行われた。


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