能村庸一の時代劇見聞録
2007/4/14OA分(阪妻・国定忠治放送後)
・雄呂血/虚無的な主人公、ダグラス・フェアバンクスに影響された派手なチャンバラとないまぜ。
・新国劇の澤田正二郎から行友李風の脚本使用を許されたマキノ省三が撮った国定忠治、東京から呼んだ大部屋の青年(六尺棒を振る捕り方役)を見出し阪妻と命名。
・東映オールスター映画を撮るのはいつも松田定次監督。マキノ省三の子息。
・国定忠治が最近題材にならないのは「ヤクザ」なせい←スポンサーの関係も。フジ・竹脇無我の次郎長はホームドラマにして料理。
・剣戟スター/右太衛門…諸羽流青目崩しを自ら編み出し磨き上げた、華麗な舞の如き立ち回り/千恵蔵の突き/剣の先が伸びると言われたアラカン/大河内伝次郎…スピーディーな立ち回りで尾上松之助の後を継ぐ/バンツマ…右左に斬りおろす、ちょっと猫背でカッコいい中にペーソス滲む魅力
2007/4/21OA分(阪妻・素浪人罷通る放送後)
・満を持して登場の阪妻、重厚な作り。
・三船で撮ったとき同じタイトルを拝借(能村氏のお気に入り)。
・天一坊もの2パターン/偽者を仕立てて天下を狙う伊賀亮を大岡越前が阻止/本物だけど政治がらみで抹殺
・天一坊は封建制度に押し潰された罪無き人の子の但し書きは時局柄、GHQ検閲逃れ(チャンバラ・義理人情モノや封建制を支持するかのようなものは禁止)。
・国策映画から百八十度転換で時代劇スターは混乱、右太衛門のマドロスもの/千恵蔵の七つの顔の探偵ものなど、ヅラをつけない時代劇に逃避。そんななかチャンバラがなくてもできると逆手にとって作られた傑作が「素浪人罷通る」。
・監督・伊藤大輔/時代劇界の神様的存在。阪妻とは最初のトーキー「新納鶴千代(1935)」のほか大傑作「王将(1948)」。移動大好き監督、大捕物のモブなどは得意中の得意。親子対面の騎馬シーンが印象的。吉宗役・守田勘弥は歌舞伎のスターが初めて映画に出演したもの。天一坊の片山明彦は名子役で鳴らした役者。大岡越前の小堀誠は新派、燻し銀。松平伊豆にはのちの大スター・大友柳太郎。当時としては異色のキャスティング。伊藤監督は「時代劇」という言葉を最初に使った人、昔の言い方は「旧劇」で現代劇は「新派」。「女と海賊(1959)」撮影時、売り物として時代劇という言葉が登場。
2007/4/29OA分(阪妻・狐の呉れた赤ん坊放送後)
・狐の呉れた赤ん坊/明るいバンツマ、チャップリンのキッドを意識して作られた説もあり。トラさんの息子は沢村マサヒコ(現津川雅彦)。無法松の一生(1943)や王将(1948)の流れの時代劇
・田村三兄弟 高寛…剽軽/渋い、正和…華麗/男の色気、亮…品格、三者三様に父の血を引く
・京都映画祭(阪妻生誕百年)高廣インタビュー(聞き手能村) 父の映画を見たことがなかった息子/父が亡くなった時、息子が役者になることを父が望んでいたと知る/剣戟王と呼ばれることに満足していなかったバンツマ・もっと庶民的な役がやりたかった/52歳で早世・昭和28年はTV開局の年・直後雷蔵錦之助橋蔵勝新と続々デビュー/バンツマの死は大きな転換点
・能村がバンツマで撮るなら 神田生まれの訛りの無い江戸っ子・鬼平もアリかも/剣客商売の小兵衛、高廣をフケさしてやったらとの池波の発言はバンツマのイメージが作用したかも ここまでの三回は松竹京都オープンセットで撮影
2007/5/5OA分(鬼平犯科帳「大川の隠居」放送後)
・池波正太郎御用達の浅草の鰻屋・駒形前川にて撮影
・平成元年から足掛け十年レギュラー放送の「鬼平」、19年目。長く続く理由は切り口の多さ、原作の良さ、吉右衛門と脇役。
・グルメ表現も人気の、池波から料理番組でないと釘さされるも売りの一つ。
・EDも人気、四季の絵。
・盗賊のメインゲストも見もの、島田正吾。フランキー堺、いかりや長介、丹哲、田村高廣、芦田伸介等の名優。
・友五郎役の大滝秀治、煙管のエピソード。千住節に苦労、師匠について修練。
・「大川の隠居」の鯉、ダイバーが動かし。
・舞台の「鬼平」
・なぜ京都で撮るか/山を除けばやはり京都。箱庭のようにあるロケスポット。ものの十分もゆけば時代劇に欠かせない深山幽谷。東京ではもう無理、特にテレビでは京都に限る。
2007/5/12OA分(必殺仕掛人1973年版放送後) 「前川」で撮影
・劇場版梅安第一号。前年に小説の梅安が連載開始。
・金を貰って人を殺すダーティーな話、子供が真似等で池波も案じていた。心配をよそに大ヒット。
・テレビは京都映画、映画は大船撮り。
・田宮二郎の印象。ダンディーでニヒルな二枚目。紫の羽織に白の着流し等衣装にも工夫。
・高橋幸治 太閤記の信長で大人気、本能寺を先に延ばせとNHKに手紙殺到。
・彦二郎はなく西村左内が相棒。TVに沿った企画。仏映画を元に池波テイストを加味。「殺しの掟」に出てくる西村左内を流用。
・渡辺裕介監督 新東宝出身。テレビ岡っ引どぶ等。コメディも得意、当時ドリフ映画を手掛ける。監督の映画時代劇はこれが初。仕掛人が本当にいれば王でも長島でもない最高のヒーローではとコメント。
・池波と能村の出会い 加藤剛剣客商売打ち上げパーティー/精悍で怖い印象/作品に満足と言われ嬉しかった/鬼平開始前、吉右衛門と自宅訪問・尾行シーンなど丸わかり演出やめて自然にと注文/1シリーズ一年見てもらったところで逝去。
2007/5/19OA分(緒形拳主演・必殺仕掛人 梅安蟻地獄放送後) 「前川」で撮影
・大ヒットしたTVシリーズと同じキャストで見たいというファンに応えたかたち。
・緒形拳の梅安はチャーミング、軽やか。仕事人の顔になる変化の大きさが凄い。
・能村氏は新国劇の頃からの緒形拳ファン。気のいい役と思えばギラギラ、見る者を興奮させる舞台。
・林与一は西村左内でなく小杉、小説通りでテレビと一味違うコク。
・山村聡、ホームドラマの父親役を元締に持ってきた思い切ったキャスティング。
・佐藤慶、小池朝雄、二人の悪役が作品を大きくする。時代劇は悪が強くないと面白くない。
・必殺シリーズヒットの要因/山内Pの話 田中角栄にヒントを得た・欲望開放型の庶民的キャラクターを創作、金も女も欲しい人物が人と出会い金で殺しを請け負い世のため人の為にならぬ巨悪を倒す「企画」。
・木枯し紋次郎の大ヒット 紋次郎もストイックな日本人好みの正統派ヒーロー。梅安は庶民の気持を代行する点が受けたのかも。
・池波作品の言葉 仕掛人、起こり等は池波の創作。アウトローの世界は記録が無いので一から作る要あり。
2007/5/26OA分(岸谷五朗主演・仕掛人藤枝梅安放送後) 「前川」で撮影
・能村プロデュース作、渡辺謙出演作も能村氏で「リメイク」に当る。「剣客」も同様、前のイメージが残る。主演三人とは初顔合わせ。
・「梅安蟻地獄」に「闇の大川端」を加味、「梅安初時雨」から子供の話を引く。
・岸谷の梅安は渋いが人間的な暖かみを持つ。髪形にはこだわりの五分刈り。
・小日向の彦さんは癒し系、殺しのシーンに目が光ると怖い。
・原田の殺陣、薪割りはスパッと見事。
・藤田の元締、元締をたくさん見てきているだけに凄味。
・林徹監督、フジのディレクター。昔から時代劇を勉強、ディティールにこだわり。湯豆腐や焼餅、藤田が大根喰うシーン。房楊枝、千葉に研究者あり自作と聞き京都に来て貰った。吹き矢も見どころ。
・ナレーターの平泉成、大奥で監督と誼あり。役がないので前後の芸者と連れ立ってゆく通行人の旦那に出演。
2007/6/2OA分(座頭市物語放送後) 赤坂「響」風庭で撮影
・没後10年。同年ヨロキン、ミフネも亡くなった時代劇の厄年。
・座頭市の原点、1962年の座頭市物語。第一作にして座頭市の世界が出来上がっていた。
・子母沢寛の「ふところ手帖」にほんのちょっと登場する文章から作ったもの、無から有を生み出すようなもので犬塚稔の功績が大きい。勝自身がこのエッセイを見たとき、これをドラマにできれば三味線弾きをやめ役者になった甲斐があると言ったと伝わる。当時若手の池広一男監督と話し飯塚に書いて貰った。しかし池広は他作品に関わり参加できず、先輩の三隅研次の登場ということになった。三隅は再度企画を練り直し、丁寧な作業を経て第一作が出来上がった。
・キャラクター/表情、仕込の殺陣、博打の場面のユニークさ。
・天知茂の平手造酒/市と対照的な死に場所を探している男。友情を育てる二人が対決せざるを得なくなる。
・アウトロー役のはじまりはこの一年前の「不知火検校」、それ以前は二枚目。極悪非道の人物の人間臭さを勝が見事に演じ、勝の演技開眼と言われた。これも犬塚シナリオ。その後「悪名」がシリーズ化され、やがて座頭市に巡りあう。
質問コーナー/フィルム撮影とビデオ撮影の違い
・フィルムのほうが深度がある。陰影が付き易い。ビデオだと黒が出にくいという人もいる。フィルムのほうがリアル感。しかし今の人はビデオの明るい画面に慣れているし技術も進歩しているので一概には言えない。鬼平はフィルムで撮ってハイビジョンに移している。剣客商売はホームドラマなのでビデオビデオで撮ってハイビジョンに。
2007/6/9OA分(天下を狙う美少年放送後) 赤坂「響」風庭で撮影
・勝新デビュー二年後の作品。元々長唄で父の後を継ぐつもりが、三味で東歌舞伎の米公演に随伴し映画に心惹かれる。ジェームスディーンに会ったとか、船で役者は一等なのに自分達は変な部屋に放り込まれ白けた話も。
・帰国後前から話のあった大映に入社、最初の作品は「花の白虎隊」。このロケでタクシーに乗ろうとしたら「あんたはあっち」でバス、雷蔵はタクシー。
・最初の主演作は「お富さん」(1954)、二枚目で売り出してゆく。「天下を…」でも白塗りだが暴れん坊イメージもあり愛嬌たっぷりで後年を髣髴とさせる面も。
・「天下を…」の録音技師・林土太郎の本「映画録音技師ひとすじに生きて −大映京都六十年」の中に「天下を…」での大河内傳次郎のエピソード。監督とともにリアルな発声をお願いしに行ったら、一日で切り替わりさすが大スターと感心。
・当時の大映の看板は長谷川一夫、大スターの胸を借りて白塗り二枚目が続き、やがて座頭市に巡りあう。
質問コーナー/能村氏の勝新と一緒の仕事
一緒の仕事はなし、企画書を持って自宅を訪ねたことはある。話を聞き終えた勝新は「役の先が読めてしまう」と衣装からキャスティングから指摘、こういう役は大河内さんがいいなどと故人を指して言われ引き下がり。
2007/6/16OA分(明治座前会長・三田政吉追善公演 忠臣蔵―いのち燃ゆるとき放送後) 赤坂「響」風庭で撮影
・四人座長とも言える豪華キャストの舞台、東映歌舞伎依頼の豪華さ。
・三田政吉…明治座の舞台を創った人。忠臣蔵をお好みの江戸っ子、追善の題材選択はこれによる。戦後、座復活舞台の柿落としからずっと役員。
・昭和30年代には舞台中継が盛ん。11代団十郎、新派の花柳正太郎、新国劇の島田辰巳両御大、東宝歌舞伎の長谷川一夫、森繁劇団の登場。中継が盛んだったのは五社協定でテレビに役者を貸してくれない状態で時代劇スターをテレビで見るため。このため各局鎬を削った。東映歌舞伎は時代劇スターが一斉に登場。
質問コーナー/舞台の魅力
生の魅力、毎回微妙に変わる芝居、客との一体感。
大向こうから声をかけるのもやっていた。←年寄りに教えて貰った件/花柳正太郎に「若緑!」の掛け声は、師匠が「緑屋」など。
2007/6/23OA分(明治座前会長・三田政吉追善公演 忠臣蔵―いのち燃ゆるとき放送後) 赤坂「響」風庭で撮影
・忠臣蔵のドラマ作り/視聴者もよく知る話、あの役は誰がこの逸話は入るか等の期待。今回は新しい演出、いろんな立場からドラマを作ろうとした。吉良邸の話、庶民から見た視点、不参加の浪士。
・今の日本人は真意を他社に伝えなくなっている傾向。語ることの大切さを訴えたいという製作者の意図。←大石とりくのドラマ。
・能村氏の忠臣蔵作品の思い出/尾上松之助の忠臣蔵が印象的。トーキー最初の衣笠貞之助監督の「忠臣蔵前編赤穂京の巻 後編江戸の巻」(1932)。
・各会社のスターを集め豪華絢爛にやるのが忠臣蔵、大映では長谷川一夫「忠臣蔵(1958)、東映では片岡・市川御大の「忠臣蔵桜花の巻 菊花の巻」(1959)、松本幸四郎「忠臣蔵花の巻雪の巻」(1963)。テレビでは里見浩太郎が紅白の裏でやった「忠臣蔵」(1985)、意外にヒット→90年代の時代劇につながる。
質問コーナー/能村氏の関わった忠臣蔵
仲代達矢「忠臣蔵風の巻雲の巻」(1991)フジテレビゆかりのスター勢揃いの四時間。
北大路欣也「忠臣蔵」(1996)東映
・作るほうも忠臣蔵制作では熱の入りようが違う。特別。日本人にとって忠臣蔵は永遠。
2007/6/30OA分(大友宗麟〜心の王国を求めて放送後) 赤坂「響」風庭で撮影
・あまり取り上げられない対象。原作は遠藤周作「王の挽歌」、脚本は古田求。放送はイラク戦争時、正月ドラマ。
・西海道談綺と同じロケ地が多数。冒頭の熊野磨崖仏(大分県豊後高田市)、普光寺(豊後大野市)の大磨崖仏、岡城址(竹田市)、原尻の滝(豊後大野市)は野鹿の里に・虹がかかった綺麗な映像。宇佐神宮も登場(あまり貸してくれない場所、大分の英雄を扱ったドラマゆえ許可か)。
質問コーナー/地方ロケの大変さ
京都は便利・集中しているから/大分では点在し苦労
2007/7/7OA分(渡辺謙仕掛人藤枝梅安心I放送後) 江戸東京博物館で撮影
・両国橋西詰模型、御家人斬九郎EDに使われたもの/江戸の水上交通が一目でわかる
・インタビュー場所は中村座復元模型前へ移動
・ナベケン梅安は久しぶりに東京で作った本格作。渡辺が企画を聞いたのは病床、原作を読み闘病の日々を送る身と重ね役を了承。病後ゆえ透き通るように白く、周囲も気遣った。撮りは真冬、風邪を引かせないよう心配。しかし熱が入り、板を踏み抜き怪我なども。東京で撮ったのは京都行きが体力的に無理と判断されてのこと。国際放映での仕事、しかし時代劇セットは取り壊した後で、東宝の本編用のセットを借り、特撮で使う大きなプールも使用。監督は吉田啓一郎、京都からスタッフを呼んだほうがいいと提案、助監督が三人ほど上京。小道具は福井敬三がトラック二台に荷を満載しやって来て、三船プロの阿部と東西でタッグを組み仕事。
・東京撮りの苦労 オープンがなくなっていた(唯一残っていた生田オープンも遠い)。どの場所で撮るのも移動が大変。芝居小屋のシーン、外の風景は丘の上のいい場所を見つけて撮影。しかし台風が来て倒壊し難儀。見慣れた京の風景と違い新味が出て大作っぽい感じに。
・ラストシーンの夕日 あと五分で日が暮れるタイミングで急に陽が射した。
・伊豆で打ち上げ 渡辺謙はまだ酒が呑めない時期だが乗って歌う。復活の喜びを感じた。
2007/7/14OA分(渡辺謙仕掛人藤枝梅安心2放送後) 江戸東京博物館で撮影
・最初の梅安の視聴率が良かった。ビートたけしの忠臣蔵がウラにりそれと互角。→シリーズ化の話に、五本ほど撮り集大成が(2)の「対決」。原作は梅安乱れ雲。当初日常と仕掛けをきっぱり分ける方向だったが、レギュラーになってからは変化をぼやかす方向に。
・脇の俳優 彦さんの橋爪功/ナベケンの劇団の大先輩、仲が良いので呼吸ぴったり 元締の田中邦衛/原作通り小柄で普段は穏やかだが怖い 白子屋の平幹二朗、小杉の阿部寛(時代劇初めて、宇仁氏に仕込まれ)、おもんの美保純、川谷拓三の仕掛人(おでん売りは自身のアイデア)
ナベケンと能村氏の仕事 弐十手物語(1984)が初 町奉行日記(1992) 御用牙(1994) 忠臣蔵風の巻雲の巻(1991) 忠臣蔵(1996) 御家人斬九郎
2007/7/21OA分(1953地獄門放送後) 江戸東京博物館で撮影
・カンヌ映画祭でグランプリ受賞。この前にベネチアで黒澤が羅生門でグランプリ、永田社長が門で行けと賞取りに意欲。
・平治の乱の話、この時代地獄門なんて門はないと美術スタッフ、時代考証にドラマが引っ張られては面白くない・敢て越えるのもドラマの作り方。
・大映初のカラー作品、社長のこれからはカラーやという話、技術の大映が万全を期して望む。舞台から伊藤きさくを美術監督に迎え、今や重鎮の西岡善信など揃い、色彩指導に和田三造(タイトルバックの油絵担当)、しかしやって見るとうまく行かない。赤と青が一緒になり紫っぽくなりしまいに神頼み。ところがカンヌでグランプリ、ジャン・コクトーが審査委員長で能の美を映像化した芸術中の芸術と絶賛。聞くと紫色が良かったらしい。アメリカなどではそういう色が綺麗に出ない、気候の問題。湿度の高さが日本的エキゾチックの淡さを見せ怪我の功名、アカデミー賞の色彩デザイン賞まで頂く(1954)。この頃は日本的エキゾチズムが欧米で持て囃された。
・長谷川一夫としては自我の強い役、この頃にあまり無い新しい人物像。京マチ子は外国で賞を取る作品にほとんど出ていてグランプリ女優と称された。テレビでは必殺シリーズで貫禄あるところを披露。今も舞台に立つ大女優。山形勲、その後悪役スターとして名を馳せるがロンドン生まれの紳士で、剣客商売で最初の小兵衛を演じる。
2007/7/28OA分(1957源氏物語浮舟放送後) 江戸東京博物館で撮影
・衣笠貞之助監督は人のやらない事を次々手掛けた監督、日本のアバンギャルドの先駆け。トーキー時代劇最初の成功作「忠臣蔵」が大ヒット。カラーの最初は地獄門、新しい俳優も多数育てた。元は女形で、けっこうな数の作品に出演。
・源氏物語では吉村公三郎のが先にありヒット、ちょっとした源氏ブームに。これで光源氏を演じた長谷川一夫が薫を演った。山本富士子、雷蔵、長谷川一夫の三大スター競演。
・山本富士子は元ミス日本、成績優秀で日銀を受けたが落ちた←美人過ぎて忌避され。五社協定がらみで映画を干され、テレビの仕事のほか舞台を主体に活躍。
2007/8/4OA分(丹下左膳餘話 百萬兩の壺放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・29才で亡くなった山中監督、ハリウッド的手法をもとに時代劇を近代化。雁太郎街道→或る夜の出来事、国定忠治→グランドホテル、森の石松→民衆の敵というようにお手本があると言われる。ただの模倣に終らず、日本文化と調和させて手本に勝るレベルの作品を創出。
・丹下左膳餘話 百萬兩の壺は「歓呼の果て」・ボクサーと酒場の女主人の米版人情劇がベース。春団次の落語を聞いて「壺」のくだりのヒントに。送って行けというお藤に逆らうが次の場面では送って行く・竹馬ダメと言いつつ次の場面では教えてやっている、こういうリズムがハリウッドタッチ。ギャグの連続も当時は新しかった。
・「餘話」の理由、原作とかけ離れていたため、林不忘と揉めた。
・丹下左膳といえば大河内傳次郎と伊藤大輔監督で作ってきた叛逆のチャンバラヒーロー、伊藤監督が日活を去り山中監督が後釜に。あまりに違う作品に観た者は賛否両論。
・歴代の左膳役者、大河内のほか、東映の大友柳太郎が明るい左膳を演じヨロキンも演じ、最近では豊川悦司が山中作品リメイクで。テレビでは仲代、左膳は俳優がなぜかやりたがる役。
2007/8/11OA分(山中貞雄監督の河内山宗俊1936放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・河内山宗俊は河竹黙阿弥作「天衣紛上野初花」(くもにまごううえののはつはな)、当時の人なら皆知っている話。日活が観客動員をはかって出したご存知物企画。できあがったものは黙阿弥のものとタッチが違い、キャラクターが全く違う。宗俊はただのヒモみたい、直侍はチンピラ不良少年、剣客のはずの金子市が情けない用心棒。原作の台詞も散りばめてあるが使い方が違う。
・髷をつけた現代劇と言われる山中作品、鳴滝に仲間と住んでいて、時代劇でも仲間で酒呑んでワイワイあってもなどと話が出ていた(創作集団・鳴滝組)。
・西部劇の影響/人のよいならず者が英雄的な行動を起こし照れているタッチの西部劇→グッド・バッド・マン物(心優しき悪党)、この河内山もまさにそれ。ジョン・フォードの「三悪人」の影響が指摘されている。
・「小柄」の真贋がループする展開、小道具でのギャグの作りかたに独特のセンス。
・マドンナ役の原節子、15歳。時代劇は初。山中監督はあまり演技をつけず、もともとあまり派手な演出はせずちょっとした指示を出すのみ、自身のコンテに自信。原節子は山中監督好み、非常に凝って撮っている。しかし当時のメディアは泣き笑いはっきりしないと酷評。その後に小津などの作品に見る原節子の芝居はデリケートで微妙な表情、その原点と言える。
・他の宗俊/カツシンのシリーズ、天晴れ夜十郎では石坂浩二の河内山。大江戸無頼河内山宗俊は丹哲、黙阿弥の本に沿った形で能村氏がプロデュース。
2007/8/18OA分(人情紙風船放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・山中監督の最高傑作・人情紙風船、京都でやって来た監督が満を持して東京に出てPCL(現東宝)・前身座と組んでこれからの時、しかしこれが遺作に。
・長屋ものの集大成と監督自身が語っていた。セットもよく、江戸の長屋を実感させ、人々も活写され山中タッチの面白い台詞も出て、楽しげなれど暗い。喋るのをやめたら死ぬ以外ないみたいな、逃げようのない庶民の不安を描く日本版「どん底」。
・原作は黙阿弥の「梅林小袖昔八丈」(通称・髪結新三)、長屋の中で突っ張っているのは新三のみ、それも権力に負ける図。又十郎はオリジナルキャラクター、三村のシナリオを監督が大きく直した部分。いい人だけど自滅のペシミズムが漲る。盧溝橋事件が起こった時に撮影が行われ、日中戦争拡大の不安・予感の中の時局の空気も影響か。
・有名なラストシーン、紙風船が長屋からどぶ川に流れ消えていくシーン、絶望的。これはジャック・フェデー監督「ミモザ館」(1934)で札束が舞い散るラストをヒントにしたと監督が語る。撮影はかんかん照りで大変だったこと、いくら水を入れてもどぶ川が干上がり難儀。
・山中監督に赤紙が来たのがクランクアップの日ともいわれ、封切りの日という説もある。このとき、「人情紙風船が山中貞雄の遺作ではちと寂しい」と言ったとして有名。
・前身座 1931年河原崎長十郎、中村翫右衛門が中心になって作った座。歌舞伎の体質があわずにいた二人の同志的結合。歌舞伎の復活のほか映画にも力をいれた。監督はこの座を訛りがないとして好み、長台詞もトチらず演ね姿勢の良さ、スターシステムとは違う劇団活動に惹かれた。座も監督を信頼した。
・監督は本作を最後に従軍、1938年中国河南省で戦病死、享年29。
2007/8/25OA分(その前夜放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・追悼作品、「その前夜」。亡くなって四ヶ月の間にクランクイン。
・学校の先輩を頼ってマキノプロ入りした山中貞雄。助監督をしていたがパッとせず。アラカンがマキノを出たときに知り合い、アラカンプロでシナリオを書いたりもした。そのうち認められ、「磯の源太抱寝の長脇差」(1932)で監督デビュー。これが評判をとり、一遍で名が知れ渡る。
・二作目「小判しぐれ」(1932)はリリシズム、字幕の巧さ「流れ流れて此処は何処じゃと馬子衆に問えば此処は信州中仙道」、言葉の切れ目に画面が変わってゆく演出が評判に。
・しばらくして日活に移り、京都から東京に出て「人情紙風船」を上梓、遺作に。
・26本の作品を遺すが殆ど戦災で焼失、現存は三本。
・「その前夜」(1939)は山中監督の遺稿「木屋町三篠」を原作に弟子の萩原遼が監督。鳴滝組による共同脚本、前進座総出演により監督没後僅か四ヶ月でクランクイン。
・「暗い」作品、新選組が肩で風きってゆくさまは軍部の台頭を連想させる。隊士が酒を呑み「勤皇も左幕もないみんな人間は同志」との発言が密告され斬首となる経緯は生き辛い世の中の出来を予感させ当時の空気を伝える。
・脚本は梶原金八、鳴滝組そのもの。一人の人間でなく架空のペンネーム。鳴滝組は山中貞雄、稲垣浩、滝沢英輔、三村伸太郎、八尋不二ら若い八人で結成したシナリオ創作集団。皆会社も別、誰が書いたかはっきりしない作品も。梶原は六大学の名選手の名、山中がファン。シナリオがヒットするようにと肖ったもの。当初八人でやっていたので「金八」。松竹の木戸社長が「梶原」をウチへ引っ張れと言った話(八人いるからお金かかりますよと部下)、八人の写真を重ね焼きしてモンタージュを作ったり(山中が八人重ねても俺の髭は残るな発言)などの逸話。
・「盤嶽の一生」(1933) 山中サイレント時代の最高傑作。新藤兼人がこれを見て監督を志した、小津安二郎が感激して京都へ来たなどの逸話が残る。
・役所広司の盤嶽は山中のシナリオ集に残るものから案を採り作った。
2007/9/1OA分(剣豪相馬武勇伝檜山大騒動放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・嵐寛寿郎 新東宝の四本は東京で撮られた最後の花道のような作品、円熟期のアラカン。
・新東宝 東宝大争議のストライキについていけなくなった人たちが結成。やがて制作請負的な立場を離れ独立。古風な独特の新東宝時代劇を創作。その路線の中心的存在がアラカン。
・新東宝のアラカン第一作は鞍馬天狗。
・牧野省三から与えられた嵐長三郎の名は独立時に返還、嵐寛寿郎に改名。
2007/9/8OA分(剣聖暁の三十六番斬り 1957放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・S32はアラカンにとっても新東宝にとっても記念すべき年。大作・明治天皇と日露戦争がつくられた。貧乏社が総天然色シネマスコープで撮った。天皇を主役にするなどそれまで考えられなかった。帝を演じたアラカンの品格と風格が高評価を受けた。
・同じGWにつくられた「暁の三十六番斬り」は影が薄くなったが、今もチャンバラ好きの間であの荒木又右衛門は素晴らしかったと言われる。
・俗にいう「荒又映画」。キャスティングが豪華。辰巳柳太郎の十兵衛、中山昭二の飛騨守、河合又五郎の丹哲→新東宝はじきに潰れたのでテレビに転じた人が多い。天知茂の孫右衛門も。
・鍵屋の辻 茶店の親爺に一文余計に渡した返せとやるくだりが好き(能村氏)。←武運拙く討たれたときに、慌てて銭勘定を間違えたと言われては恥。
・殺陣師が直前に右太衛門の荒又映画を見て、36人じゃ足りないもっと派手に50人くらい入れてと演出。
・アラカンならではの二刀流、両方の手で受けて突き出す。アラカン左利き。ゆえに丹下左膳の話も来たが大河内伝次郎に遠慮。
2007/9/22OA分(嵐寛寿郎「稲妻奉行」(1958)放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・大岡越前が奉行になる前の話。宗十郎頭巾は鞍馬天狗そのもの、銃なんかも持っている。
・アラカンが演じた最後の鞍馬天狗は宝塚映画「疾風!鞍馬天狗」(1956)、新東宝では撮っていない。原作者が他に原作を渡したらしく、できない状況に。他の人がやるものの好評は得られなかった。アラカンの鞍馬天狗再びの声に、もどきの格好で撮られたものか。
・能村氏が初めて見た時代劇映画が「鞍馬天狗」、ひばりが杉作をやった松竹作品。夏休みの校庭にスクリーンを張りゴザを敷いて見た。虜になりチャンバラごっこに興じた。のちに近藤勇を演じた際や、網走番外地で老囚人を演じた際には、あれは実は強い鞍馬天狗と思ってしまった。
・アラカンの殺陣 いくら長く演じても裾が乱れない裾裁きの美しさ。美しくスピーディーなのが特徴。もう一人の剣戟王・阪妻は芝居っ気たっぷり、剣戟ショー的。アラカンはスポーツタイプでリアル。
・むっつり右門を地で行くと言われたアラカンだが、晩年はよく喋りバラエティにも出演。離婚のことなど書かれ、隠すものもない自在の心境にあったものか。
2007/9/29OA分(嵐寛寿郎「風雲七化け峠」(1952)放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・おにぎり持って出てきてお酒呑んでしくじって、危険を冒して死んだ男のお土産を届ける一風変わったキャラクター、昔の明朗時代劇の香り。
・監督・並木鏡太郎はアラカンと若い頃から縁の深い人。同年生まれ、マキノに入ったのも同じ年。
・天狗以外の役をとの話で出た企画、監督が湯治に行って着想を得た。
・三原陽子の野性味…起用時に肉体美で決定。以後も新東宝はお色気路線を打ち出す。
・並木監督のアラカン評価 居丈高にならない/無口・不言実行/権威に奢らない/金に淡白
2007/10/6OA分(女殺油地獄1984NHK放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・近松門左衛門 人形浄瑠璃と歌舞伎、当時の二大芸能いずれもで偉大な功績を残す。浄瑠璃は竹本義太夫、歌舞伎は坂田藤十郎と組み活躍。日本のシェークスピア、作家の氏神などと称される。
・芸というのは真実と虚構の間にあるという「虚実皮膜論」でも知られる。
・女殺油地獄 近松が69歳のとき作った世話浄瑠璃、晩年の作。当時は評判がよくなかった。美しさのないリアルな凄惨さが民のお気に召さなかった。しかし現代に通じるテーマだとして、今は最もポピュラーな作品。
・NHK作品の脚本は富岡多恵子、篠田正浩の「心中天網島」「鑓の権三」も書く。演出は和田勉。主演は松田優作、共演は小川知子。関西弁の指導が厳しく、役者殺方言地獄と言われた。
2007/10/13OA分(心中宵庚申1984NHK放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・実際にあった事件を基にした作品。夫婦の心中は珍しかったので当時話題になった。
・鬼姑、養子が邪魔で女房も憎い。血の繋がった甥に身代を譲りたいので苛め、心中に至る。当時の家長精度の重さが如何に人間を蹂躙しているか、という近松の怒りが描かれた作品。
・タイトルの宵庚申 庚申待ちの夜
2007/10/20OA分(1985NHKおさんの恋放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・おさん・茂兵衛もの。大経師昔暦、京が舞台の話。近松の生まれは越前で父が浪人し京へ、30年くらい過ごす。世に出たのは大坂へ行ってから。京にいた頃は公家に仕え、主の浄瑠璃好きの影響で興味をもったと言われる。宇治嘉太夫のもとに作者見習いとして入る。
・おさん茂兵衛では溝口健二の近松物語(1954大映)が有名、悲壮美の極致のような作品。処刑前の二人の表情が印象的。
2007/10/27OA分(1986NHK但馬屋のお夏放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・お夏清十郎。場所と名を借りて但馬の口碑と併せ作った、脚本家の創作。
・御津町・賀茂神社の踊りを再現。
・脚本家が防空壕で出会った「冥途の飛脚」。
・近松の魅力、今も変わらぬ同じテーマ。
2007/11/3OA分(大河ドラマ花の生涯/赤穂浪士放送時) 旧安田楠雄邸で撮影
・大河第一作と二作。NHKOB・合川明氏(この二作担当プロデューサー)ゲスト。
・テレビ放送が始まって7,8年、事件記者・バス通りなどあったがまだ半生でVTRも入っていなかった。当時の芸能局長の発案で「長谷川一夫で忠臣蔵」などの企画。五社協定の壁があり難渋、松竹のトップスターだった佐田啓二宅に日参。
・花の生涯 最終回の桜田門のシーンは東映城で撮影。東映歌舞伎で空いたタイミングで借りられた。内容は4,5分だが準備を入れて五時間ほどの収録。撮影が始まると東映の人が手を貸してくれた(アンチテレビ時代のこと)制作魂に感動。
・赤穂浪士 権力に対する抵抗精神(雲野陣十郎や堀田隼人)を描きたいスタッフの要望が通る。大映の重役だった長谷川一夫をテレビの紙芝居ごときに出せるかと社長・永田雅一が怒ったが、長谷川自身が潮目を読み承諾←今まで見てくれた全国のご贔屓さんにテレビでお披露目。討ち入りシーンは8月14,15日しかキャストの都合がつかず←蚊とか弁当の腐敗の心配など大変。NHKの富士見が丘グランドのプールを利用し大セットを設営、国際放映なども。
・残っていないことについて/VTRが貴重だったので、使ったらすぐ消せと命令が。職人技の編集も大変。クレジットの順番に文句をつけられたが、気軽に直せなくて大変。開始当時は「大河」の名はなかった。スタッフは皆規定外の過酷なオーバーワーク。大好評で視聴率53%を叩き出した。芥川也寸志の赤穂浪士のテーマも好評。スタインウェイのピアノを一台を壊し始末書もの←絃に細工し効果的な音を創出。鞭の音は芥川の案でキャベツや豚肉などを使用。札束番組とかドル箱番組と評された。
2007/11/10OA分(勘九郎・森の石松放送後) 旧安田楠雄邸で撮影
・勘九郎の希望で賑やかなキャスティング。柄本明もこれば始めての顔合わせ。岸辺、石橋、火野(当時事務所が同じ)等異色にして多彩な顔ぶれ。
・ロケ 間人に石松の家や近所のオープンを建てた。海がスカっと見える石松の家は次郎長ものでもなかなか無い。金刀比羅宮は現地行、金丸座でも撮影・八汐も勘九郎が演じている。閻魔堂は派手に雨を降らせ朝まで撮影。
・ギャラクシー賞を受賞。しかしOA時、ブッシュ大統領が来日していてレセプションで倒れた様子が臨時ニュースで入り(一分)、視聴率に響いた(14.9%)。
2007/11/17OA分(里見1992SP風林火山第一部放送後) 旧安田楠雄邸で撮影
・H4年末時代劇、里見には珍しい汚れ役で満身創痍。監督は池広一夫、大映の若手監督で雷蔵とニュー時代劇を手掛けた。脚本は杉山義法。
・風林火山 映像化の歴史 S34にテレビで最初、生ドラマの時代。シンプルなセットで人間ドラマを演出。主役は原保美。
・S44には東野英次郎が勘助役を。その年水戸黄門の撮影に入っていた。同年三船でも映画化、大作で裕次郎が特別出演したり豪華。
・S60は若者文化の台頭でテレビも変化、時代劇も苦労した時期。その年の大晦日に日テレが紅白の裏に忠臣蔵をやりヒット、主役は里見。この枠は定着。日テレ年末の時代劇になり、90年代につながってゆく。日テレ年末スペシャルの集大成的な一にあるのがこの「風林火山」。
2007/11/24OA分(里見風林火山第二部放送後) 旧安田楠雄邸で撮影
・戦国ものの魅力 死と背中合わせの功名、夢と現実、没落と栄達、運不運が表裏一体となり、時代の濁流となり流れ去る一種の無常感が漂うのが醍醐味。ストイックな愛は日本人の好きなモチーフ(勘助の夕姫への愛)。
・能村氏、戦国ものを手掛けたことはなし。大作をやれる枠がフジになかったことと、金の問題。まず鎧兜、武器に馬多数、広いロケ場所を要することなど大変。
・里見の逸話、映画末期にいた大先輩・千恵蔵とマージャンをしたときの話、御大にやって貰いたい役として山本勘助のことを言うと、今の東映では無理・金かかりすぎと言われた。この頃から里見の中でいつかやってみたい役として心に残った(里見の自伝にも記述)。二枚目できた里見が汚れ役で、ファンサービスに高坂弾正を二役で出した。
2007/12/1OA分(阪妻国定忠治放送後) 松竹京都撮影所で撮影
・2007/4/14放送分をアンコール放送
2007/12/8OA分(岸谷五朗・仕掛人梅安放送後) 駒形前川で撮影
・能村氏がプロデューサーの一人。自作のリメイク、主要キャストとは初めての仕事。
・トリオの良さが本作の要諦。
・梅安蟻地獄、闇の大川端に加え、初時雨から子供の話を加味。渋いが人間的な温かさを感じる梅安に。
・梅安を演じるには頭を刈る必要あり、岸谷は刈り方に工夫・五部刈りをチョイス。
・小日向の彦さん、癒し系で殺しの際は凄味あり。
・原田龍二のチャンバラが巧く、薪割りも巧かった。
・藤田の元締、「元締」をたくさん見てきているから○。
・林徹監督、大奥で男を上げたTVディレクター。昔から時代劇を勉強してきた人で、各作品のディティールをよく知りこだわりの演出。湯豆腐や餅焼きなど小道具にも凝る。房楊枝は千葉に研究者がいて自作、京都まで来てもらって撮った。吹き矢も凝り。
・ナレーターの平泉成、監督とも親しく通行人も演じた(冒頭とラスト)。
2007/12/15OA分(座頭市物語放送後)
・2007/6/2放送分をアンコール放送
2007/12/22OA分
・2007/10/6放送分をアンコール放送
特別編(2007年末) 松竹京都撮影所で撮影 ゲスト/西岡善信
第一回 西岡氏とフジテレビ時代劇の出会い
・松竹京都撮影所 昭和10年にマキノトーキー撮影所としてスタート、間もなく松竹の撮影所に。一時は松竹京都大映撮影所、下鴨が焼けてここが中心に。
・60年代 三匹の侍が始まりフジの時代劇が多くなってゆく。五社英雄の「人斬り」が西岡氏最初のフジの仕事。初めの見かけヤクザだった監督。
第二回 1970年代のフジテレビ時代劇
・木枯し紋次郎 大映が手掛けた初のテレビ作品。電通のプロデューサーからの話、監督と主役は決まっていた。笠を大きく、合羽を長く不細工なヤクザを狙った。第一話が終ったあと大映倒産。シリーズを続けるため新会社・映像京都を設立。
・座頭市 映像京都のスタッフが多数参加。
第三回 1980年代のフジテレビ時代劇
・時代劇スペシャル 二時間枠のはしり、レギュラー枠。当時の村上専務が中心になって進めた企画、岡田プロデューサーに急遽話を持ち込み(現代劇の人)。仲代達矢、加藤剛ら俳優座が協力。「地獄の掟」には無名塾の若手を皆参加させ修練の場に。役所広司が刀を反対に挿していたことも。
第四回 1980年代のフジテレビ時代劇・2
・時代劇スペシャル 前評判好調、千代の富士に一役買ってもらいアピール。滅多にテレビに出ない三船やヨロキンが出るスケール。
・第一回は橋蔵の沓掛時次郎。橋蔵がテレビでヤクザものはどうかという議論もあった。ラストに足を洗うからOKに。
・三年間140本制作されて終了。各社鎬を削って作ったことが良さを引き出した。鬼平や剣客がこれを踏襲。
第五回 1990年代以降のフジテレビ時代劇
・鬼平犯科帳 西岡氏は当時五社英雄の「利休」を製作中。鬼平が定着した段階で剣客。
・御家人斬九郎が好評
2008/1/12OA分(エノケンの鞍馬天狗放送後) 港の見える丘公園/大佛次郎記念館で撮影
・原作者に因み横浜で撮影のインタビュー。
・最初は怪傑鞍馬天狗で勤皇の志士、のちそこから脱却し超越した批判者として成長。大佛氏の生きた時代を反映。シリーズ最後の「地獄太平記」では、杉作に人の命を奪うのはよくないこと述懐して終る。
・読者が書いてゆく部分もある大衆文学と捉えていた大佛。反権力の立場は貫く。
・エノケン 喜劇の王様で東宝のドル箱と言われた。今見てもテンポのよい動き。太平洋戦争突入直前の暗い世相の中、民衆を笑わせた作品。喜劇の達者が脇を固めたのも映画に厚みを付加。
2008/1/19OA分(新鞍馬天狗夕立の武士放送後) 大佛次郎記念館で撮影
・アラカンは鞍馬天狗を38本撮った時点で原作者サイドから中止を要請された。ひとつは著作権で、原作を勝手に使い全く内容の違うものが出た。また、アラカンの天狗は人を斬りすぎにも警告。原作でもけっこう斬っているが、それなりの理由に基づいたもの。しかし映画はやたら斬る、そのギャップが決裂の方向に。
・小堀明夫はアラカンに代わる天狗として東宝映画に登場。この映画には製作者として大佛次郎も名を連ねた。天狗は勤皇の志士でなく、ストレンジャーとして事件に関わってゆく。桂小五郎とのやりとりでは、志士と一線を画す部分が出てくる。小堀明夫は、マキノの次郎長でも演じたように等身大の人間として庶民的な天狗を演じた。
・監督・杉江敏男 現代劇の監督でこれが時代劇初。
2008/1/26OA分(雷蔵・新鞍馬天狗放送後) 大佛次郎記念館で撮影
・夭折した雷蔵、名作あり娯楽作あり、映画人生を全うした男。前半は「花の白虎隊」でデビューし長谷川一夫の後継として期待された。さっそく溝口健二に抜擢され「新平家」に出て、炎上くらいまでが「初期」。真ん中は公私ともに充実期、大菩薩峠、薄桜記、斬るなど悲劇的人物を演じる。一方明るい映画やドラマにも出演。第三期はシリーズの時代、眠狂四郎、忍びの者、若親分など。そのなかに「新鞍馬天狗」は位置。
・雷蔵の天狗は品格があって強くて優しい、鞍馬天狗の三大要素を備えている。アラカンも誉めていた、なかなかの出来。若いし貫禄がある雷蔵天狗。天狗は36歳以上歳をとらないと原作者の言、小説のなかでは段々若返ったり。
・共演者 中村敦夫はこの七年後紋次郎に。玉緒の弟で平泉成も出演(当時は本名で出演)。中村竹弥の近藤、テレビの始末記で好評をとりキャスティング。
・テレビに時代劇主力が移行する時期の作品。テレビでは草莽期の生ドラマの時代から鞍馬天狗を制作。最初は市川高麗蔵(高麗屋系)、嵐寛寿郎(単発で一回)、市川団子、中村竹弥、大瀬康一(月光仮面のおじさん)、高橋英樹(NHK)、竹脇無我、草刈正雄、目黒祐樹、中井貴一(市川崑、単発でポエジーな天狗)、松平健(能村庸一)、野村萬歳と連綿と演じられてきた。
2008/2/2OA分(昨日消えた男放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・マキノ雅弘と長谷川一夫は奇しくも同じ年生まれ、二人とも子役から映画界入り。マキノ雅弘の父は映画監督・牧野省三(最初の監督で最初のプロデューサー、大スターを数多く育てた)、子役としてこき使われた。長谷川も京都出身、伏見生まれで叔父が芝居小屋を持っていてピンチヒッターで出た。
・マキノ監督は18歳時に既に一本映画を撮っている(青い目の人形/1927)。長谷川一夫は19歳で松竹からデビュー(稚児の剣法/1927)。二人ともたちまち大監督と大スターに。
・二人の出会いは戦争中、昭和16年と17年に集中して五つの作品を作った。「昨日消えた男」は最初の一本、正月映画。時間がなく東宝に急かされ脚本家・小国英夫と籠り創出。
・マキノは早撮りで有名、渡辺邦男はもっと早いことで有名。この映画撮影時、隣のセットで仕事をしていた。二時間で7カット撮ったと言ったら、一時間で13カット撮ったと逆ねじを食わせたマキノの逸話。マキノの手法、中抜き(カメラや照明、セットを動かさず撮れるカットばかりまとめて撮る手法)。
2008/2/9OA分(家光と彦左放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・長谷川・ロッパの家光とタイトル、長谷川一夫と同等に並ぶ喜劇王。
・「昨日消えた男」より先に作る予定だった作品、ロッパの病気で延期。ロッパは強硬に代役を承服しなかった。
・ロッパの父は男爵で貴族院議員。男ばかり七人兄弟の末子で、養子に出た。祖母の芸能好きが影響、幼少より読書好きで巌谷小波の波をとってPNとしていた。映画も好きで、大学時代から映画雑誌に投稿し評判に、一時キネ旬の投稿同人にまでなった。友人の作った映画に出てみたり、物真似が巧く周囲を笑わせていた。声帯模写という言葉はロッパの造語といわれる。「ナヤマシ会」で徳川夢声など弁士だった人たちがトーキー普及後にいろんな芸をはじめたときに、弁士の癖をやった。
・「笑いの王国」を旗揚げ、その後松竹から東宝に移り正式にロッパ一座を作った。エノケンと並び二代喜劇王。
・「婦系図」でも長谷川一夫とコンビを組んだ。
・この映画では長谷川一夫が船弁慶を踊ったり、当時十六歳の藤間紫が静御前を踊り、見せ場多し。戦時中ながらセットも立派な作品。
2008/2/16OA分(阿波の踊り子放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・阿波踊り場面の大群衆が迫力、長谷川一夫がその中でちょっと踊る憎い演出。
・鶴田浩二の弥太郎笠でもリメイク。マキノ監督はお祭りシーンが好き。
・脚本の観世光太は山上伊太郎の変名。マキノ省三によりライターの道へ。
・マキノ省三のモットー「一スジ、二ヌケ、三ドウサ」
スジ/ストーリー、脚本、ヌケ/映像、撮影、ドウサ/動作、役者
まず大事は脚本、がマキノ親子の憲法。
・雅弘と山上が組んだ「浪人街/第一話・美しき獲物」はキネ旬一位に。そのあと「首の座」と次々評価される。評論家受けとしたが客受けにはつながらなかった。借財を負ったことからエンターテインメント路線に。一方山上は変わらず芸術指向、その後組んでの仕事は少なく、阿波の踊り子は久々の作品。
・戦争で三年途絶えていた阿波踊り、映画ということでスターを送り込み現地でホンを直しながらの撮影。
2008/2/23OA分(男の花道放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・長谷川一夫お得意の芸道もの、女形では雪之丞変化が最大の当り役。
・劇中劇、妹背山女庭訓も見どころ。ロッパの医者との男の友情も。
・松竹と東宝が鎬を削っていた頃の作品、正月用に松竹は李香蘭の蘇州の夜を、対して東宝はやっぱり長谷川一夫とこれを持ってきて再び女形を演じた。
・講談をもとにドラマ化。長谷川一夫にとりこの話は人事でない切実さ、バッシングや顔切り事件で再起不能を囁かれたピンチののち奇跡的回復を遂げた彼には格別の思いがあったと思われる。
・タイトルがなかなか決まらなかった件、まさか土生玄石でもないし中村歌右衛門でもないしと決まらぬまま撮影は進み、終わり際に開戦の報が入る騒ぎの中撮影が始まり、ロッパがマキノをつかまえ「戦争じゃ男の花道!」と叫んだ。兵隊さんは男の花道、舞台も戦争も同じ男の花道と言う彼に「うまい題名」とマキノは膝を叩いたと自伝にある。
・フジでもドラマ化。島田正吾と共演。
2008/3/1OA分(待って居た男放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・戦争激化の中、映画界も窮屈に。会社は統合され、松竹、東宝、日活と大東映画と新興キネマが一緒になり大映に。マキノゆかりの日活が消えた。
・1942年、全国の映画館が紅系と白系に二分され、松竹、東宝、大映の三社から毎週一本ずつ封切られることになった。
・そんななか長谷川一夫で撮る話が来たとき、国民を楽しませるため娯楽作をという話になり、「影なき男」の線で行こうと決まった。
・マキノ・長谷川共通して似るのは観客への視点。260本もの映画を撮ったマキノ監督、ジョン・フォードの倍。辞世の句「まだ足りぬ映えて画いてあの世まで」
・二枚目役者で来たのは不幸の長谷川一夫、評価が低い点も。晩年にはベルばら演出も手掛けた。
2008/3/8OA分(御宿かわせみ白萩屋敷の月放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・原作者・平岩弓枝 S48年から連載のシリーズ。映像化も多く舞台でも演じられる。
2008/3/15OA分(御宿かわせみ恋娘放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・大川端の宿屋という設定が妙。映画「グランド・ホテル」を意識。
・かわせみの由来、作者の見た川端のカワセミ。昔隅田川でも見られたと聞き採用。
2008/3/22OA分(橋の上の霜放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・平岩弓枝、代々木八幡神社の一人娘。戸川幸夫に師事、取材方法を学ぶ。のち長谷川伸に紹介され教えを受ける。
・太田南畝 下級武士出身。狂歌・「世の中は我より先に用のある人の足跡橋の上の霜」
2008/3/29OA分(風の墓標放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・ホームドラマ脚本家としての平岩弓枝 肝っ玉かあさん、ありがとうが大ヒット 当時テレビは団欒の場で一家揃って見るもの
2008/4/5OA分(1955・荒木又右衛門放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・原作者・長谷川伸 股旅物の創始者、大衆文学の先駆者 股旅の造語も長谷川伸
・講談ネタの定番を、史実を調べ歴史小説ふうに書いたのが特徴。システムとルールをかっちり描く。
・又右衛門は先代松本幸四郎、松竹はバンツマ亡き後歌舞伎界から中心になるスターを引っ張ってきた。数馬も梨園から。島崎雪子は「青い山脈」でヒットした人物。
2008/4/12OA分(疵千両放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・幼時恵まれなかった長谷川伸、伊原青々園に見出され都新聞に。その境遇から人に優しく、人の幸せを願う人物だった。篤志家な面も伝わる。
・作家志望の者には特に。→新鷹会(1940から始めた小説勉強会。没後も弟子たちが活動)。山岡荘八、村上元三、池波正太郎等。
・疵千両 昭和五年の戯曲が原作。仇討ち物(当時人気高し)。仇討ちに批判的だったり、討たれる者に同情的な作品も書いた。
・田中徳三監督 大スター・長谷川一夫は汚れ役も厭わず演じた。監督新人協会賞を獲る。
・義理人情、意地の三つのテーマが長谷川作品の重要な要素。男の意地、美学を感傷的に描いた一作。
2008/4/19OA分(おしどり喧嘩笠放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・原作は昭和10年にサンデー毎日に連載された長編小説「けたぐり音頭」、通俗的な作品。関東のヤクザが勤皇の志士を助けるのがツボ。日支事変前の時勢が反映された。
・鶴田浩二と美空ひばりの共演(時代劇共演はこれが初)。鶴田は当時、長谷川一夫と並ぶ人気二枚目役者。東映の右太衛門、大映の長谷川一夫、東宝の鶴田浩二で三大スター。
・ひばりの事務所が制作。錦之助や橋蔵が入って当時たいへんな勢い。
明るいタッチの長谷川伸作品、キャストに合わせた部分も。
・股旅もの以外の長谷川伸のライフワークはノンフィクション。「日本捕虜史」は菊池寛賞を取り、折口信夫が電車でわざわざ声をかけ仕事をほめたと伝わる。「相楽総三とその同志」はニセ官軍の汚名を着て殺された者の話。「日本敵討ち異相」は事件の真相をさぐるもの。作家の「紙の碑」をたてると長谷川伸の言、「紙碑論」。
2008/4/26OA分(旅路放送後) 小金井・江戸東京たてもの園で撮影
・股旅もの。主演・池辺良は鶴田浩二や長谷川一夫と並ぶ人気二枚目役者。時代劇は少ない。
・長谷川伸原案。稲垣浩との話し合いでできた作品か。ある意味長谷川伸へのオマージュ。全体は沓掛時次郎に似て、ギャグも似る。
・稲垣監督 役者の子。千恵プロで一本立ち。一心太助が好評、次は瞼の母をやりたくてニセ電報を千恵蔵名義で長谷川伸に送った逸話。怒られるも実現、モンタージュ技法やカット割りも受け好評をとり出世作に。
2008/5/3OA分(大岡越前第一話放送後) 赤坂「響」風庭で撮影
・399話作られた大岡越前。
・1970年制作。若く凛とした風格の加藤剛。出世作は1962年の「人間の条件」、オーディションに合格して梶を演じた。のち「三匹の侍」に出演。
・水戸黄門の後番組として出て、交互に放送された。松下単独提供で幸之助の意向が入った。狙いはホームドラマ。
・千恵蔵をテレビで脇に使うと当時評判に。中村竹弥もテレビが生んだ最初のスターの一人、TBS契約第一号。竹脇無我との顔合わせだけで凄い顔合わせと言われた。
2008/5/10OA分(不知火検校放送後) 赤坂「響」風庭で撮影
・大映 戦時中映画に統制がかかったとき、時代劇映画の老舗の日活と、新興キネマや大東映画が一緒になってできた会社。羅生門、雨月物語などの印象が強いが、プログラムピクチャーの供給元でもあった。明るく判りやすい東映の向こうを張って作り続けられた。
・少ない予算の中で質の高い娯楽作品が生み出された大映の背景には、職人監督たちがいた。
・森一生 大映の代表的監督、黄金期を支えた功労者。千恵蔵たちがまだ大映にいた頃からメガホンをとった。雷蔵映画を多く撮る。元は日活、各社を経て大映へ。大映創始者・永田雅一はワンマン社長、大映の監督たちは自分の企画による芸術性の高い作品は撮らせて貰えず次はコレと指示の「プログラムピクチャー」。
・不知火検校 お仕着せの番組の中でも薄桜記やこれは乗って作った作品。ただのワルじゃない「人間」を描いた作品。勝新の転換作。森監督の心残り、最後の大八の前に呟く「お前たちも俺のように生きたかったのだろう」という台詞を会社がカット。