花に吉野、紅葉に龍田

 時代劇を観るにあたって、江戸城が姫路の天守だとか、何のなにがしの守のお屋敷が大覚寺の門だとか、そういうの一切考えないのが、ほんとうは正しい市民的鑑賞態度なのだと考える。銭湯のタイル絵の富士山は素直に愛でればよいのである。
お芝居の書割は、共通理解によって成立している。

 人「吉野山はいずれの国ぞ」と尋侍らば「只花にはよしの山、もみぢには立田を読ことと思付て読侍ばかりにて、伊勢の国やらん、日向の国やら知らず」とこたへ侍るべき也。いづれの国と云才覚は、覚えて用なきこと也。

 中世の歌論書「正徹物語」の一節である。極端そのものの物言いの美しさ、自分がおぼろげに感じていたことは、大昔に碩学によってとうに言及されていた。すなわち伝統を尊重することであり、先人の言葉を宝石とすること。ここに歌枕は純粋な美学として昇華される。
時代劇も同じで、古来演じられてきた様々なかたちの劇がいろんな媒体に乗ってゆく過程で、決まりごとが発生する。その膨大な集積の上に、いまわたしたちが見るドラマがある。

 さてどの口が言うかの、このサイトでやっているロケ地特定作業なのだが、目的は「見立て」の追求にある。
今は無い風景が様々なロケ地やセットを使って演出され、わたしたちの前に提供されるわけだが、描き出されるのは理想の情景である。それはノスタルジーであると同時に、おのずと現代の風景デザインに警鐘を鳴らすメッセージでもある。虚構と理想の共通項を掴みたく試行錯誤しているが、どうにもこうにも頭の出来が悪く焦燥感が募るばかりで、道は遠い。


*参考文献
「吉野山はいづくぞ」丸谷才一(S40「展望」所収)
「歌論歌学集成」第11巻(H13三弥井書店刊)

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