大和川付け替え

 付替えに至る経緯 

 現在の大和川は、柏原市国分付近で西へ流れ、堺市で大阪湾に注いでいるが、1704(宝永元年)以前は、大阪と奈良の間の山地を抜け安堂で石川と合流し国分付近から北流、河内平野を幾つもの川に分かれ、枝分かれした後大きな池をつくり、上町台地の北辺で旧淀川(現・大川)と合流し大阪湾に注いでいた。当時の淀川下流部・寝屋川筋・大和川下流部は沼沢の多い低湿地が広がり、排水は悪く、出水時には集まった水が寝屋川に集まり、淀川の逆流で行く手を失い、河内平野の低湿地に溢れ、時に川の水位が田畑より3m近く高くなることもあった。大和川の破堤と淀川の破堤が重なることもあり、この型の洪水では、近年でも死者が出ているほどで、ひどい時には枚方・大東・東大阪は言うに及ばず、大阪市から堺まで泥海になったという。
 当時の大和川流域では、この地理条件と、町の発達の際の生駒山乱伐が重なり、わずかの雨でも出水し洪水被害を出し、摂津・河内の農民を多いに苦しめた。このため、河内郡今米村の庄屋・中甚兵衛らが幕府に、川筋の付替えを図面も添えて永年にわたり請願し続け、15年ののち許可がおりる運びとなった。

中甚兵衛像
柏原市の大和川築留堤防上に立つ中甚兵衛像
新川筋を指差して工事の指図する姿

 工事の概要

 1704(宝永元年)、長さ約14.3km(131町)、川幅約180m(100間)の計画で二月より工事が実施され、延べで240万人の人手と、7〜8万両の経費を費やし、十月までかかって完成をみた。
 新大和川は平地を流れるので、新流路に高い堤防を築いてゆくのがメインの作業であった。また、北流していた東除川を新流路に落とすため落堀川をつくる等の作業も行われた。東除川はそのままでは水位差のためうまく新川に落とせないため、新川筋に沿って堀を切り、水位が同じになった地点で新川に注ぐよう落堀川が作られたのである。また、西除川では旧流路は大幅に西に向けられ、新川に落とすようにされた。また、石川のそばを北流していた大乗川などは下流部を分断され、中ほどから東に向けられ、石川に流れ込むように改修された。
最大の難工事は「浅香の曲り」で、ここまでは平坦な土地での作業であったが、浅香山が台地なため、川筋をよほど深く掘り下げねばならず、今まであった池や谷川などを利用し、いちばん低いところを通るようにしたため、新川筋においてこのあたりだけが流れが大きく曲がっているのである。このため、当時の人は「浅香の千両曲り」と称したという。

 付替え後の毀誉褒貶

 一方、古大和川筋は「築留」で堰き止められたが、用水確保のため水門を作り、旧流路にも大和川の水をなおも配水した。このため、新川筋では良田を新川築造により失ったばかりでなく、折角の新川に碌に水が流れていないようなこともあったりしたので、水争いも深刻で怨嗟を残すことにもなったという。
旧川筋ではまた、用水は残ったものの、それまで発達していた舟運は衰え、物資輸送に余計な費用がかかることともなり、また地域によっては用水が確保できず、無断で水門を開けた庄屋が投獄され獄死した話も残っていて、良いことずくめとは行かなかったようである。
いずれにせよ、旧川筋は大いに新田開発され、鴻池(新開池)や深野池(草香江)などの大きな池も田畑となった。河床跡だけは砂地のため水田を作れず、ワタ栽培がなされ、特産の河内木綿は明治中期まで盛んに作られた。また、現在も旧川筋は地味がよくないせいか、公立の小・中・高校がかつての川筋のそばに多く建っているのも面白い。

大和川築留堤防・長瀬川取水口

大和川築留堤防の下(大和川右岸・柏原市上市二丁目)から堤を見上げる。
この堤の向こうを新大和川が流れている。
この写真の右手に築留改良区の事務所がある。

参考資料1. 付替え請願奏上文書
参考資料2. 河内の新田開発


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