時代劇ロケ地探訪 穴太橋

 古寺古社では、戦前の無声映画にある景色が変わらず残っていて感動を覚えることがある。補修し継承して下さる人あってこそのもので、普通は残っていることを期待するほうが難しい。
景色のうちでも水まわりは特に変化が激しく、中でも「橋」は車を通す事情もあり、特殊な例を除きなかなか木橋のままではいられない。

下流側・東望 上流側・北望

 穴太橋(あなおはし)は亀岡市西郊、曽我谷川中流部に架かる橋。渡って西にゆけば、西国二十一番札所・穴太寺の門前に出る。すぐ傍の分流に架かる小橋には「巡礼橋」という名がついている。現在の穴太橋は上写真の通りのどこにでもある今ふうのコンクリート橋だが、かつてはなかなかに味わい深い木橋で、橋脚が二本設けられていた。橋はすっかり姿を変えたが、川相は撮影当時とさして違わず護岸もほぼそのまま。

右岸たもとから

 道も舗装され、地道だった当時とは様変わりしているが、上写真のような角度で見ると、ガードレールではあるものの、ごくごく低い欄干を持つ橋だった旧橋もなにやら偲ばれる態でもある。

穴太橋上手の土手 穴太橋をロケに使った例は、1960年代から1970年代にかけて撮られた、栗塚旭主演の一連のドラマに見られる。新選組血風録「槍は宝蔵院流」は、局長・近藤勇に阿る鼻持ちならぬ男が破滅に至る話。その男・谷三十郎率いる七番隊と、斎藤一率いる三番隊が、大坂へ出張る京街道が穴太橋と周辺を使って撮られた。隊伍を組み橋を渡ってゆくその後ろに監察の山崎丞が従いてくるシーンは将に上写真のアングルで、映像にある旧橋の親柱に「あなおはし」と記されているのが確認できる。このあと一同がお昼をつかう土手は、右写真の穴太橋上手の左岸堤上。

府道406号・西条風の口線 穴太橋たもとより西望

走田神社社叢 上写真は穴太橋西たもとから穴太寺へ至る道を見たもの。ここは燃えよ剣初回の「新選組前夜」において、姉の婚家に無心にゆく土方歳三のくだりで出てくる。設定は武州・日野在、橋を渡ってやって来た歳三に、野良帰りの衆が寄ってきて声を掛けるのがここ。侍のなりをして無愛想な彼に、里人が不快感を示す。この右手は走田神社裏手にあたり、左写真の田畔が大川橋蔵の銭形平次で使われたこともある。

 橋上からも走田神社の林が見える。切れ目からのぞく建物は社務所。
ここは燃えよ剣「沖田総司」において、沖田が療養の日々を送る千駄ヶ谷の植木屋のイメージとして使われた。

橋下手右岸堤から見た走田神社社叢 右は社務所アップ

 鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組は東帰するが、もはや一枚岩ではなくなり近藤土方らの采配に従わぬ者も出てくる。新選組が京を離れた時点で床についていた沖田総司はいよいよ病篤く、植木屋の離れに匿われる。弟を気遣う姉のおみつだが、彼女もまた夫に従い江戸を去る身、これを最後と会いにやって来る情景が穴太橋で撮られた。
沖田を訪なうおみつが、行き来に弟の暮らす家を眺めやる橋が穴太橋。ちょうど林の切れ目にのぞく社務所の萱葺屋根が植木屋に擬えられる。この橋を渡って官軍もやって来る。泣く泣く帰ってゆくおみつの情景には、下写真右の、橋を東に渡りきったあとの道も使われていて、曲がりくねったさまがなかなかに効果的。遠景に映り込んでいる高架は京都縦貫道で、もちろん撮影当時には無かった。

橋たもとから東望 橋上から北東望

 左岸側の橋たもとには、上写真左の如く「凍結注意」の立看板がある。ドラマにはこれと似た角度で、火の見櫓が演出されていた。燃えよ剣の日野在として使われた際にも、天を斬る「桐の梢に」および「暗殺者の指示」でもあしらわれていた。細工が凝っていて、打鐘を天辺に据えた梯子の脇には立札があり、大水にはこれ、騒乱にはこれと点鐘の決まりごとが記されている。
六社明神の祭礼で結ばれた土方歳三の「恋人」が逢瀬の約束を取り付ける背後にも、近藤正臣の飛脚が引っ掛かった凧を取ってやるため櫓に登るくだりにも、同じ小道具が使われていた。いずれも鄙びた里の情景で、天を斬るでは京・山科の里だったり、当の「穴太の里」だったりもする。

京都府亀岡市曽我部町

*穴太橋ロケ使用例


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