時代劇ロケ地探訪 釘抜地蔵

千本通に面する入口の門 ご利益を求める人々が集う場には独特の雰囲気がある。写真なんか撮っているのが場違いな、信仰が今も生き生きと脈づいている現場だからこそ醸し出される情景が、いにしえの町角を表現するひとこまに馴染む。
 千本通にあまり目立たない門を構える石像寺は、通り名を「釘抜地蔵」という、弘法大師の開基になる浄土宗のお寺。衆生の苦しみを救ってくださる「苦抜」が「くぎぬき」に転訛したとも、地蔵が夢枕に立ち苦悩の因の釘を抜いてくださった故事に因むともいう通称は、体の痛みを治して貰った人々が奉納する、釘と釘抜きがついた独特の絵馬に形を残す。

 林与一が希代の盗賊を演じた映画・鼠小僧次郎吉は、伝説の義賊の内面を活写した渋いお話。鼠小僧については、いまや義賊などではない実相が研究されているが、このお話での鼠は、あくどく儲けた者どもから盗んだ小判を貧しい民にばらまく正義の味方。しかし当の鼠自身は、そうした行いが真の救済になどなっていないことを重々承知の上で、弱き者のために施しを続けている。そんななか、鼠に恥をかかされた二足の草鞋が、彼の幼馴染を使って身辺に迫ろうとする。この、救済の対象でもある身内からの裏切りという皮肉なドラマが、釘抜地蔵境内で撮られた。

参道 参道、釘抜と釘のモニュメント
中門 中門から参道見返り

 権力者とつるんだヤクザに脅された幼馴染の船頭・虎吉は、望外の好条件を提示されたこともあって「転び」、女房が止めるのも聞かず「次郎さん」を売ってしまう。ある日道で「表の顔」をした幼馴染と出会った虎吉は、一旦躊躇うものの「次郎さん」を追ってゆく。虎吉が鼠の姿を求めて駆け入る門が、釘抜地蔵の中門である。

中門から地蔵堂を望む 大師堂と弘法の井

 門をくぐって境内に入った虎吉が鼠の姿を求めて頭をめぐらすのは上写真右の大師堂前、次いで地蔵堂正面が映る。境内にはお参りの人々が行き交い、乾いた鉦の音がかんかんと響く。虎吉は鼠の姿を求め奥へ入ってゆく。待ち構えていて幼馴染の真意を問う鼠のくだりは、地蔵堂の裏手で展開される。
このお堂まわりにはいまもお百度参りの人が絶えないが、劇中にもお堂を巡る町衆が登場する。

地蔵堂正面 地蔵堂側面
地蔵堂裏手 地蔵堂側面
地蔵堂裏手・阿弥陀三尊の御堂 地蔵堂側面

 地蔵堂脇を走り抜けようとした虎吉の背に、鼠が声をかける「虎ちゃん、俺はここにいるぜ」。
誰を探しているか、誰に頼まれたか問う鼠、しどろもどろの虎吉。彼らの傍らを、お百度参りの町人が通り過ぎる。重ねて問う鼠に、虎吉が出来心を詫びようとしたそのとき、信者を装って張り込んでいた岡っ引が正体を現し鼠を捕縛にかかる。立ち回りは、地蔵堂と阿弥陀堂の間の狭い空間で展開される。捕り縄をふりほどき逃げ去る鼠は、墓地へ通じる境内隅へと消えてゆく。
こういったシーンは撮影所のセットで撮られることが多いが、敢て撮影しにくいこの狭い境内を使った効果は充分に出ていて、地蔵堂の側面にびっしりと飾られた奉納の絵馬も、画面に説得力を持たせる。翻って言えば、いま釘抜地蔵境内に立てば過ぎ去った日々となんら変わらぬ空気を呼吸できるということで、信仰によって維持されてきたこの空間の貴重さを思い知らされるのである。

鼠小僧次郎吉 三隅研次監督作品/1965.4.3大映 →視聴記

京都市上京区千本通上立売上ル花車町


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