時代劇の風景 ロケ地探訪 広沢池

 広沢池は宇多天皇の孫・寛朝僧正が遍照寺を建立した際に作られたと伝わり、秦氏の手になるともいう。
寛朝は怪力の持ち主というエピソードが宇治拾遺物語などに見える。宗旨は真言で、寺は彼の死後衰微し現在は名を継ぐ小寺が残る。


池中央から遍照寺山を望む

水抜き後の池
 広沢池は北嵯峨にあり、北に円錐形の形のよい遍照寺山が聳え水面に影を落としている。西に嵯峨の山なみが続き、愛宕山が遠望される。池の南側を通る道を東に行けば、鳴滝の山裾を巡って御室に至る。
池は夏と冬でがらりと表情を変える。ふだんは満々と水を湛えているが、12月のはじめに「鯉揚げ」が行われたあとは翌春まで水が抜かれた状態で乾いた底を見せている。水はひと月かけてゆっくりと抜かれ、背が立つくらいに水位が下がったところで養殖されている鯉やモロコが掬い取られる。これが「鯉揚げ」で、嵯峨野の冬の風物詩となっている。

 広沢池は、近くにある大覚寺の大沢池とニュアンスの違った使われ方をする。草深い汀を持つ広沢池は、大沢池と比べるといかにも郊外の雰囲気。同じ作品に使われることも多いが、設定は微妙に違ったりする。
また、水のあるときも無いときも使用されるのも面白い。水が抜かれたあと現われる水脈なども効果的に用いられる。また夏の水を満々と湛えたときのヨシ茂る水際は、大川端などを表現するのにぴったりである。
使用例詳細
東岸 西岸
東岸 西岸

☆広沢池ロケ使用例一覧 ・1979年以前 ・1980年代 ・1990年代 ・2000年以降

京都市右京区嵯峨広沢町
*貸しボートあり

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