川を訪ねる旅   瀬田から宇治へ・淀川上流をゆく

南郷洗堰

南郷洗堰   堰下より見上げる

 国分川を見た後、国道422号へ戻り再び瀬田川沿いを南下、ゆったりと流れる瀬田川は南郷洗堰を控えてたっぷり水を湛えている。堰の上手ではのんびりと釣り糸を垂れる人、昼食をとる家族連れ、堤を駆け回る子供など人でにぎわう。

南郷洗堰  堰の上流・右岸堤から 水のめぐみ館アクア琵琶
川に張り出しているのが旧洗堰

 堰の上には県道108号南郷桐生草津線が通じ、車が行き交う。橋上の道から触れるような位置に堰を調整するワイヤーが見えている。
これは1961年に作られた新堰で、やや上流には1905年に作られた旧堰が一部残されている。旧堰の左岸側には「水のめぐみ館アクア琵琶」が建ち、洗堰の歴史を伝えると共に大雨体験コーナーや水質調査船「志賀」を展示している。ここと県道を隔てた大戸川とのデルタ上には琵琶湖工事事務所があり、その隣には水産センターがある。

 この南郷という地は淀川の治水上重要な所で、洗堰を経てすぐに瀬田川左岸に流れ込む大戸川が押し流す土砂でできた浅瀬は、江戸幕府がヤナをかけ供御瀬(くごのせ・朝廷へ献じる魚を獲る場所の意)と称し浚渫を許さなかったところである。
もともと南郷周辺は、瀬田川左岸(東岸)の大日山(上のパノラマ写真で洗堰の背後に見える山)があるため狭隘な地形となっており水の疎通が良くないところへこの下の黒津で流れ込む大戸川が田上山(たなかみやま)一帯からのマサを含んだ水を運びますます水の通りが良くないので、ここを浚わないと近江に豪雨あるとき琵琶湖岸一帯は水がはけず田畑が水浸しになってしまうのだった。

大津市黒津を流れる大戸川  よく砂を運ぶ川なのが判る

 だからといってここを浚えて水の通りを良くすると、宇治から下では洪水が起こり易くなることから、近江盆地と大阪平野の利害対立が続いた所以でもある。
江戸期には湖岸住民の度重なる請願にもかかわらず幕府は軍事上の問題からこれを許さず、1670年から1831年間に5度ほどの川浚えをしただけであった。ここは治水上のキーポイントであるだけでなく、東西交通の要衝でもあったので、前述の理由により瀬田川唯一の渡渉可能な個所となるからであった。
 時は移り明治政府は明治18年・29年の琵琶湖増水による水害を受け、明治38年、洗堰の建設を敢行した。
更に時代が下ってからは1961(昭和36年)に旧堰をあらため電動式のいまの洗堰が作られ、1972年には利水・治水・保全を柱とした琵琶総がスタートし、湖岸堤の建設や各種低水対策がとられることとなった。

 洗堰を見た後は瀬田川左岸を北上、京滋バイパス近くで篠部川を撮り、29号瀬田大石東線を取って返し、黒津で大戸川下流部を見て、田上山を望む田園地帯で小山川を撮ったのち再び洗堰を渡り、国道422号に戻って南下、山間部を流れてゆく瀬田川を下る。

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