大阪城の北で旧大和川水系に注ぎ、ほどなく大川(旧淀川)に入っていた猫間川(ねこまがわ)は昭和32年に完全に埋め立てられ消失してしまった川である。大阪市内では珍しいことではないが、たいていは人工的に開削した運河を埋めたり、流路の変更や或いは海岸部の改変であって、この川のように自然河川が完全に消失した例はさすがにあまり聞かない。拾い集めた資料を元に猫間川の在りし日を追ってみたい。
■ 成り立ち
大阪平野はたいてい平坦な沖積平野であるが、上町台地など平野と大阪湾を区切る洪積台地がいくつか存在する。
猫間川は上町台地と我孫子丘陵に挟まれた、墨江津の北から、長池、股が池と続いてゆく低地に発して北流し、大阪城の北で他の諸流と合わさる川だったようである。
それは現在の大阪市住吉区から城東区におよぶものである。
長池・股が池は阿倍野区に現存していて、JR阪和線からもよく見える。
■ 川の痕跡
源ケ橋
生野本通り商店街の入り口がその橋のあった所という。
国道25号線の生野区生野西四丁目の三菱銀行前のバス停や付近の銭湯に名を残している。
橋名の由来は猫間川の渡し守の名からという。
黒門橋
大阪市東成区東小橋一丁目の国道308沿い(JR環状線玉造駅の東方)に碑が残る。
ここは暗越奈良街道の大阪側起点付近にあたり、往時は街道を行く人に茶を商う店などで賑わい、道の南北に茶店があり繁盛したという。茶店は俗に「二軒茶屋」と称された。
余談であるが、お伊勢参りの最も贅沢な道中では、浪花の地を出る際ここで見送る人と別れの宴を張ったという。さんざん散財する向きもいたようで、落語のネタになっている。
ここに、猫間川に架かる石橋が架かっていた。橋は慶安三年(1650)に架けられた公儀橋で、正式名は「黒門橋」といった。ここは、1925(大正14)までは大阪市と東成郡の境であった。
国道308号の橋跡らしきもの 自転車の人の先のコンクリート構造物 |
当該物件のすぐ東の路地 うねうねと曲折している |
碑のあるところの北、国道を渡った東成区中道三丁目には、橋の跡かと思われるコンクリート構造物がある。
駐車場の腰板の可能性もあるが、東の道がうねうねといかにも不自然に曲折していることから、道は川跡と思って差し支えないようである。
大坂の町はふつうきれいに条里になっているので、このようなカーブは自然物の名残りであることが多い。
いま、碑のある通りには人気のラーメン店や讃岐うどん店など林立し、玉造駅に通じる道に行列ができている。
猫間川川浚碑
大阪市中央区玉造二丁目の玉造稲荷神社境内にある碑。
建立は1839(天保10)とあり、神社傍をかつて流れていた猫間川を前年に浚渫した工事の記念碑で、川灯台の格好をしている。
その様態からもかつて舟運が盛んであったことがうかがわれる。
■ エピソード
アパッチ族
大阪城の東側には砲兵工廠があり、また城に師団が置かれたことから第二次大戦末期に大規模な空襲を受けた。
一面の焼け野原となり放置されていたそこに、暮夜ひそかに侵入し鉄材などをくすねる一味があったという。
梁石日氏や小松左京氏の小説にも描かれた「アパッチ族」である。
彼らについてはここでの詳述を避けるが、彼らは猫間川に潜ってそこへ侵入したという。
今は大阪城公園も整備され、最後まで戦争の痕跡を示していた砲兵工廠跡もビルが立ち並ぶオフィス街(OBP)となった。
■ さまざまな改変
大阪市天王寺区には細工谷という地名が今も残っているが、これは猫間川の侵食谷という。
付近からは古銭の出土などもあり、古くから人の住み着いた事がうかがえる。
この付近の地勢などを見るに、猫間川というのは他の大和川水系諸河川と違って流程もさして長くなく、流量もさほどでない、御しやすい川だったのではないかと思われる。
すでに近世、大阪城築城の折に外堀に利用されるなどかなりの改変が見られる。
近代以降の容赦ない開発にあってはひとたまりもなかったであろう。
明治初期に軍が作成した地図(川と濠を彩色)。
右から合流してくるのは平野川。
流れ込む先はこの頃まだ改修されていない淀川(今の大川)。