鴨川水系の都市河川
古都・京都を流れる鴨川は、巨大な人口を抱える大都市を流れる川である。
その割に清流が保たれている稀有な川だが、そこに流れ込む小川のなかには、都市化により姿を変えてしまったものもある。
別項「失われた洛中の小河川」には消滅してしまった川を挙げたが、ここでは上流部は見ることができるものの流末が暗渠化され町の下、という小川を見てみたい。
都が置かれた1200年前から、京の町は改変を受け続けてきた。
御所が作られたことだけでも水みちは大きな変化を強いられることとなったが、疏水開通や岡崎の博覧会などによる改変もあった。
その後人口増による宅地開発、市街地整備などで東山から下る無数の谷の流末が暗渠となった。これは町なかにとどまらず、郊外の西賀茂あたりでも同様である。
■ 音羽川
音羽の滝 | 滝裏から 建物は清水の舞台 |
観光客がひきもきらない名所・清水寺の奥には、寺名の起こりとなった滝が落ちている。
三本の樋から落ちる水は古来霊水として尊ばれ、滝行の場ともなった。
いま清水寺を訪れる観光客も、列をなして長柄杓で水を取り、口にする。
茶店下のパイプ | 錦雲渓 |
滝をおちた水は、前にある茶店の下をくぐり錦雲渓に流れてゆく。有名な清水の舞台の真下にあたる谷は、鬱蒼とした樹木に覆われ水面がなかなか覗けない。
渓谷はこのあと鳥辺野のほうへ流れてゆくが、国道一号線の五条坂のあたりは繁華な市街地で、流末はほぼ不明となっている。
また、錦雲渓においても流量は極端に少ない。
■ 一の橋川 (今熊野川)
泉涌寺塔頭・来迎院 | 門前橋から谷を望む |
今熊野観音寺 参道橋・鳥居橋 |
鳥居橋下 墓地参道橋から見た谷川 |
「みてら」泉涌寺の境内に発した細い流れは、深い谷を穿つ。
谷には旺盛に植物が繁茂し、たださえ頼りない浅川を隠してしまう。
少し下った、今熊野観音寺参道橋下では、なんとか川らしい姿を拝めるものの、水量は少ない。
夢の浮橋跡 東山区泉涌寺五葉ノ辻町 |
川は、泉涌寺塔頭・新善光寺裏手で暗渠となるが、泉涌寺道の一筋北側の街路に痕跡が見られる。
谷筋らしきその道を辿ると、上写真の碑に行き当たる。
碑の南側にもえぐれた地形が続いており、鴨川へ注いだ様子が窺える。
碑は、一の橋川に架かっていた「夢の浮橋」を記念して建てられている。
この橋は鳥辺野へ死者を送る弔いの列が通った、彼岸と此岸の境の橋であった。
わけても泉涌寺は、歴代皇族方の御霊が鎮まる月輪陵を抱える「御寺」。
碑には、泉涌寺僧の詠んだ歌が刻まれている。
鴨川左岸に口を開ける暗渠出口・上流側 |
鴨川左岸に口を開ける暗渠出口・下流側 |
今熊野から泉涌寺、本町と市街地では完全な暗渠で、川らしき姿は拝めない。
しかし「注ぎ先」の鴨川を対岸から見ると、暗渠の出口が二つ確認できる。
ところは、JR奈良線が鴨川を渡る鉄橋と、師団街道が交差する地点。
ごく近いところに二つあり、いずれを流末とも定めがたい。
上流側の一件では、すぐ東の疏水に、泉涌寺道に架かる「一之橋」が架かっている。
下流側の一件は、夢の浮橋跡から南へ続く谷筋の末で、常に水が見られるのはこちら。
流末から源流の谷を望めるようなケースでも、暗渠になってしまった川を追うのは難しい。
※疏水の一之橋は、通船のため高橋となっている。 →参考画像疏水に架かる一之橋
■ 一乗寺川
京都市左京区一乗寺月輪寺町 | |
京都市左京区修学院・一乗寺境 | 鷺森神社境内を流れる宮川 |
一乗寺川は、紅葉の名所の門跡寺院・曼珠院の南を流れる。
宅地を縫って南西流するうち、白川通付近で暗渠となる。
下手では開渠もあるが、行く手には疏水分線があり、流末は不明。
鷺森神社のほうから一本細い谷が来るが、涸れていることも多い(宮川)。
川相は宅地を縫う三面張りの都市河川で、傾斜地を流れる。
谷が深いので、転落防止のためか、高い柵に囲われている個所もみられる。
■ 若狭川
京都市北区大宮一ノ井町 | 川沿いの用水路 |
若狭川はむかし堀川の源を成していた川で、鷹峯の釈迦谷山から来る。
谷口の手前で尺八池に堰かれたあと一ノ井町へ出てくるが、以降は暗渠となる。
また、この付近から下は近代に付け替えられており、堀川ではなく賀茂に導かれるようである。
今宮神社の幼稚園の西に残る微妙に曲がった道は、この川のかつての流路であるという。
上流では今も用水が取られていて、道端をきれいな水が勢いよく走ってゆく。
■ 正伝寺の谷
境内の谷 | 参道下の土管 |
西賀茂の毘沙門山に抱かれた古刹・正伝寺の境内を、一本の谷川が流れている。
放生池に堰かれたあとの流末は不明である。
緑濃い林間をゆく間にも、上写真のような土管に入る部分もある。
京都の山沿いの寺社には、似たケースがよくある。