時代劇の風景   ロケ地探訪

黒谷

金戒光明寺本堂 真如堂本堂

永観堂から望む黒谷の丘 京洛の雑踏から少し離れた左京、東山の峰と鴨の流れの間にほぼ繋がった二つの小丘がある。ひとつは吉田山、ひとつは黒谷という。
前者は吉田神社ほかの鎮まる神の丘、後者は光明寺と真如堂が甍を並べる祈りの丘である。

 黒谷の丘の南に建つ金戒光明寺は叡山で修行中であった法然上人がここを通りかかった際見た紫に棚引く雲と天から降る光に感応し草庵を営んだことにはじまる。故に寺号は紫雲山、寺名に光明の字を頂く。浄土宗七大本山の一つに数えられる。
 寺は応仁の乱の戦禍を蒙り焼亡したが安土桃山期に復興、以後徳川家の厚い庇護を受けて発展する。
司馬遼太郎氏の説によると、ここと知恩院は徳川家の隠し城で、京に事あるとき粟田口を押さえる役目を荷わされたという。なるほど知恩院黒門付近などを見ると城郭のようだし、ここ光明寺には幕末に京都守護職本陣が置かれたことを考えると頷けるものもある。

 丘の北には俗に真如堂と呼ばれる真正極楽寺が建つ。永観二年に女院御所に叡山から移された阿弥陀堂を起源とする天台宗の寺である。本尊の阿弥陀如来は慈覚大師の手になるという三如来のひとつ、うなずきの阿弥陀と親しまれる立像である。


光明寺石段から本堂 ■ 金戒光明寺

  ・三門  ・石段と坂  ・境内  ・塔頭と路地

三重塔  真如堂

■ 会津本陣

 黒谷には、幕末も煮詰まった頃、京都守護職の本陣が置かれた。任に当たったのは松平容保、数奇な経緯のすえ大名となった藩祖・保科正之から数えて九代目の会津藩主である。家の成立から将軍家への忠節篤い会津中将は、一藩を賭す覚悟で困難な役目を受けたという。
着任当初は、よく統制のとれた会津藩の働きで京の町の治安は復したが、既に幕府方に時運なく情勢は悪化の一途を辿る。こうしたなか、会津中将のもとで警察業務にあたったのが「新選組」である。そして池田屋事件、禁門の変を経て政情は急速に動き、大政奉還のあと、鳥羽伏見の戦いに錦旗あがり、会津は賊軍の汚名を着て京を追われることになる。黒谷の墓地の奥まった場所に、はるか会津の地から来て京洛に没した会津藩士たちの墓標が並んだ一角がある。鳥羽伏見戦役において戦死した多くの霊は合祀されているが、たくさん並んだ個人の墓標の没年を拝見すると、日常の業務で亡くなった藩士の多さが判り、御役目の困難さが偲ばれるのであった。


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