大和川  上流  長谷寺門前町と初瀬峡谷  峡谷と谷底平野


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■ 長谷寺門前町  桜井市初瀬

長谷寺本堂 ダムを出た大和川は古刹・長谷寺(はせでら)の門前へ流れてくる。長谷寺は古来より、熱狂的な信仰を呼び篤く尊崇された。長谷の観音さんに詣でる人々のさまは、源氏物語をはじめとする古典文学にも記されている。現在では花の寺として人気が高く、牡丹に桜、初夏には紫陽花と周年賑わっている。古い門前町は2km近くあり、名物の草餅や葛きりに素麺などが売り出される。川はその賑わいの裏手を流れ下ってゆく。左写真は、本尊の巨大な十一面観音が祀られている長谷寺本堂。

長谷寺門前付近
与喜浦天神社参道・天神橋から 長谷山口坐神社参道・神河橋から

門前町の水路 門前町では、川は旅館や土産物屋が密集する裏手を流れる。
家々の背割となる、温泉地などによく見られる風景である。
山手にある神社の参道などに架かる橋からは川を眺められるが、長谷寺へ参る人はたいてい一回橋を渡るくらいで、あまり川を気にとめるふうも無い。
しかし門前町には水量豊かな水路が走り、涼しげな風景を作り出している。これには上のほうで初瀬川から取られた水を流している。
上写真にも見えるが、初瀬川にはそうした用水を取るための堰が多く設けられている。様式はかなり古い。
川相の特徴は、巨岩を噛む瀬と堰堤による湛水区間が交互に現れるというもの。河床には水生植物も多く生え、建物の途切れた部分では河畔林も豊かである。

■ 初瀬峡谷  桜井市初瀬〜慈恩寺

国道165号初瀬大橋から上流方向 長谷寺駅西方の親水公園

 門前町を抜けた初瀬川は、国道165号をくぐってから向きを大きく西に振る。
この先は谷口となる大和朝倉駅付近まで国道と鉄道の間を流れることとなる。
国道はかつての伊勢街道で、谷筋を走る近鉄電車は今もお伊勢さんに客を運び続けている。
川は、ゴロ石が少なくなり幅も太くなってゆく。岸辺には雑草が旺盛に繁茂する。
最近、派出所の裏手付近に親水整備がなされ、河畔を散歩するためのウッドデッキなども設けられている。

初瀬の谷
長谷寺方面を望む
狛の丘から
谷口には耳成山が見える
白河の谷から
谷口方向を望む
狛の丘から

 初瀬川は、支流の吉隠川流域から続く細長い谷底平野を成し西に向かう。
この初瀬峡谷はなだらかな山に挟まれ明るく開けた谷で、道沿いに街村が形成される。耕作地には棚田が多く作られる。
少し高い丘に登ると谷地形がよく把握できる。丘から谷口のほうを望むと、耳成山や畝傍山の可愛らしい姿を見ることができる。

桜井市初瀬 桜井東中学の北 桜井市黒崎 田園地帯に渡る橋
桜井市黒崎 桜井市脇本

 支流の白河川や狛川を入れる付近からは、今までより規模の大きな堰堤が目立ち始める。
谷が広くなり耕作地も増え、川の利用度は高くなる。
ここからの流域は田園地帯となる。花卉栽培や野菜畑も見られるが、水田が圧倒的に多い。

黒崎 田の間の水路 黒崎 棚田を落ちる水 出雲 旧道沿いの水路

 田の間をめぐり、旧道沿いの家並みをめぐりした用水は再び初瀬川に戻される。
また、棚田を伝ってきた谷水もやがて初瀬川に入る。
田に水が配水される期間には川に泥濁りが入る。

桜井市脇本
朝倉台へ通じる高架橋から上流を見る
左と同じ橋から見下ろした水面
大きな石は見られなくなっている
桜井市慈恩寺
右手は三輪山の裾
桜井市慈恩寺の川面
鳥はコサギ

 脇本地区付近から、谷はいよいよ開けてくる。川相も上流域の様相から中流域のそれへ変わりつつある。
慈恩寺地区で国道をくぐったあと、初瀬川は大きく向きを北西に振り、いよいよ大和盆地へ流れ出す。
谷口となる慈恩寺付近では川幅がぐっと広がり、静水域もできる。ここには水草などがよく茂り、生物たちのよい棲息地となっている。


■ 隠口の初瀬

白河の初瀬山 忍阪の外鎌山

 隠口は「こもりく」と読む。泊瀬(はつせ)にかかる枕詞である。
大和国中(くんなか)から見れば隠れ里のような初瀬峡谷を古代の人はそう呼んだ。
隠口の泊瀬は古代人にとって葬送の地でもあり、飛鳥藤原の都から死者への思いを込めて眺めやる谷であった。
万葉集には親しい人をこの地に葬った心情を詠んだ挽歌が幾つか選ばれている。

隠口の泊瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ

 上の挽歌は巻三に収められた柿本人麻呂の歌で、土形娘子を葬った際のものである。
歌の意は初瀬の山あいに湧く雲に亡き人の面影を見るというもの。
歌にある泊瀬山がいまの初瀬山かどうかは不明だが、こんにちでも曇りがちの日に初瀬峡谷の山を這いのぼる水気を見ていると、万葉人と我らの間に横たわる千年の時もこえて心情が伝わってくる。

 万葉集にはこのほか、挽歌だけでなく初瀬の谷に住み暮らす庶民の妻問いの相聞歌や、初瀬川そのものを詠んだ叙景歌も見える。巻七に「泊瀬川 流るる水脈(みお)の瀬を早み井堤(いで)越す浪の音の清けく」とある一首からは、上代においても初瀬川の水を利用するための堰が設けられていたことが読み取れる。


■ 古代の宮

白山比盗_社
万葉集発耀碑

 古代、初瀬の地には宮廷が置かれたこともあった。
雄略帝の初瀬朝倉宮がそれで、帝は万葉集開巻第一の相聞歌「籠もよ み籠持ち 堀串もよ…」の作者として知られる。雄略は諡号で、天皇の名は「大泊瀬幼武」という。宮跡ははっきりここだと言える遺跡が出ておらず、狛川の上手の岩坂や左写真の白山神社付近をそれとする説がある。
白山神社は国道沿いにあるひっそりした鎮守で、境内には桜井市出身の文学者・保田與重郎氏の筆になる萬葉集発耀讃仰碑と、雄略帝の御製を刻んだ碑が残されている。


■ 棚田

狛の丘から 谷底平野を見下ろす丘に立つと、棚田がみごとな造形美を見せてくれる。
水が入れられ、苗を植えだすばかりとなった田は空を映しこみ絶景となる。
そして棚田の傍に立ち谷口を眺めやると、この形式の水田がダムであることが実感されるのだった。
*写真は狛川上流の丘から
 


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