曽我川  下流部  橿原市〜広陵町


・源流 ・上流 ・中流 ・下流 ・河口 ・曽我川表紙


橿原市観音寺町 左下流、右上流望

カワウ 上写真は橿原市西南端、いよいよ平原へ出る曽我川である。
川幅はたっぷりと広がり、カワウなどの大型の水鳥が見られるようになる。
河畔には、商業施設なども見え出す。

橿原市川西町 左写真は橿原市川西町、千塚橋から下流を見たもの。
左岸には団地なども作られるようになる。
この右岸には新沢千塚古墳群があり、国指定史跡。4〜6C頃の群集墓で、東漢氏や大伴氏の葬送地とも言われる。シルクロードを越えて運ばれた副葬品も出土しており、付属する資料館に展示されている。欽明帝以下の古墳も多いこのあたりは、万葉の故地でもある。

 敷妙の袖交へし君 玉垂の越智野に過ぎぬ またも逢はめやも
                     (柿本人麻呂 万葉集巻2-195)
 越智野は佐田真弓の丘の裏手、曽我川沿いの地とされる。歌は川島皇子葬送の折り、妃の泊瀬部皇女の心情を柿本人麻呂が代詠したもの。

橿原市東坊城町・古川町境 古川橋から 左上流、右下流望
右写真の鉄橋は近鉄南大坂線、阿倍野行きの電車が渡る

 近鉄南大阪線が渡るあたりに来ると、ずいぶん堤が高くなってくる。
堤には桜並木が連なり、市民のよき憩いの場となる。
橋から川面を覗き込むと、小魚がきらきらと腹を見せて苔を食む姿が見られる。
木には小鳥がすだき、河原には鶺鴒が走る水景を見ると、そのかみ曽我川を詠んだ万葉歌も想起される。

 真菅よし 宗我の河原に鳴く千鳥 間無し我が背子 我が恋ふらくは (巻12-3087)

橿原市雲梯町 橿原運動公園傍 右岸堤から下流望

 近鉄の線路を過ぎ、国道165号との間には、右岸そばに橿原運動公園がある。
巨大プールと各種グラウンドを持つ総合施設で、県外からの利用もある。
川堤には続いて桜並木があり、施設の森とあわせ緑のオアシスとなっている。
ここ雲梯(うなて)も万葉故地で、雲梯神社の「卯名手の杜」がこの近くにある。

橿原市曽我町 豊津橋から 左上流、右下流望
左写真は高取川合流点、右写真は橿原バイパスを望む
豊津橋下のミズワタ 豊津橋東詰から右岸堤を見る

 JR桜井線をくぐってすぐでは、大支流が流れ込んでくる。壺阪の里から畝傍山の裾を巡ってきた高取川である。
この川を受けて曽我川の水質は一気に悪化し、汚水菌スフェロティルスの出すミズワタがびっしりと河床を覆う(上写真のミズワタは、2003年11月に撮ったもの。2016年5月現在、左写真のように改善され鯉が群れ泳いでいる)
この付近からは著しい天井川となり、上写真にあるように家屋は水面より低い位置にある。

広陵町広瀬 大今橋から上流望 左岸堤内地から曽我川堤を見る

百済寺 広陵町付近は、曽我川とその大支流である葛城川、高田川が平行して北流する広野である。東には飛鳥川も流れている。
この野では江戸期より綿花栽培が盛んであったが、明治になって機械が導入され靴下製造が広まり、現在も全国有数の産地である。道にも「靴下の町 広陵町」の看板が誇らしげに立っている。
この野の一部は古代百済野と呼ばれた。官寺であった百済寺跡が今も残り、一面の農地の中に塔が聳えている。このあたりを流れる曽我川には、ゆえに「百済川」の古称がある。
川堤は高く、百済の野を東西に過ぎるとき、あたかも山越えの如くの高堤を幾つも越えることになる。


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