■ 澱川のはじまり 京都府宇治市〜京都市伏見区
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■ 槙島 まきしま
宇治川は、近世以前はいまのような姿ではなく、巨椋池(おぐらいけ)という一大遊水池に注ぎ込んでいた。
山城盆地で最も低平な地に宇治・桂・木津の三つの大河川が集まり、巨大な池を形成していたが、400年前に秀吉が手を入れてからこのかた、さまざまな経緯を経て昭和初期に完全に埋め立てられた。
槙島堤は秀吉の伏見開発の一環として作られたもので、宇治から向島にかけて築かれ、堤沿いに宇治川を迂回させ伏見に導くという目的を持っていた。
これにより宇治川は巨椋池と切り離され、更に伏見から淀にかけて築かれた堤により独立した川となった。
結果、伏見は川港としての姿を整え、また宇治川は伏見城の外濠としての性格も帯びることとなった。
濠としての性格はその後泰平の世となり消えるが、陸と水との双方の要衝となった伏見はこれ以降明治まで発展を遂げてゆく。
槙島堤 道は府道241号向島宇治線 |
京滋バイパス下の宇治川 遠景はアルプラザ |
槙島堤下の瀬 右岸側には豊かな河畔林 |
淀みはじめる宇治川 両岸に緑が揃いだす |
宇治を出て北西に流路をとる宇治川は、京滋バイパスが渡る付近ではまだ瀬を噛み州をつくるといった川相を見せる。
堤は高く、家々の庇はこれより下に見える。左岸側の槙島堤下は刈り払われて広い高水敷が広がるが、右岸側にはヤナギを中心とした豊かな河畔林がこんもりと茂っている。中州にはサギ等の鳥が多数立ちこんでいる。
あまり数は多くないが、釣り人の姿も散見され、河原で焼肉のファミリーも見られる。京滋バイパス下は雨も避けられるので人気のようである。川から立つ水気ゆえか、山が近いせいか、このあたりではよく俄か雨に遭う。
針木原あたりからは、川相が変わりはじめる。瀬や中州が消え、淵となりはじめる。
■ 隠元橋 いんげんばし
隠元橋に差し掛かる頃には水は完全にたゆたい、淀の名に相応しい相を見せる。水量もたっぷりとゆっくり流れる川面には、水深をうかがわせる水泡が浮かんでは消える。
淀川を「澱川」と記述する例があるが、字義によく適った川相である。
隠元橋 | 隠元橋下の淵 |
隠元橋は府道黄檗停車場線に通じる橋で、これを渡って東に行き山に当たると黄檗山万福寺がある。
かなり遅く、江戸期に日本に入った禅宗・黄檗宗の寺で、橋の名はこの寺の開祖・隠元禅師から採られている。
伏見区大島地先から見た澱の流れ |
■ 向島 むかいじま
槙島堤から続きの堤は、向島に至り心持ち高めとなる。堤から見下ろすと、川はずいぶん低いところに見える。
山科川を右岸に迎えて、川は向きを南西に振り伏見へと流れてゆく。
対岸は伏見桃山城のある山である。付随する遊園地はこのほど閉園となったが、お城はまだ残されている。明治帝の御陵もこの山にある。
向島から桃山町を望む | 堤越しに京阪宇治線が見える |
向島の堤 | 向島堤から伏見の町を遠望 |
向島は名の通りかつて州だったところで、槙島堤作堤により島ではなくなった。古い集落だが、最近は背の高いマンションも河畔に建っている。
もう少し内陸の国道沿いでは小倉と続きでニュータウン開発が著しい。巨大な団地群もある。
川はますます深くなり、独特の色をした水が悠然と流れてゆく。このさき、三川合流に至るまで似た川相が続く。
河畔には鬱蒼とヤナギ類が茂り、とてもまわりが建て込んだ市街地とは思えない。ヤナギに混じりヨシの群落も見え出す。