高瀬川 二条〜三条
高瀬川分流後のみそそぎ川 | 高瀬川源流庭園 |
みそそぎ川は角倉の「樋之口屋敷」だった料亭の庭にまず引き込まれる。
上写真左は水を分けた直後のみそそぎ川で、この先高所に導水する用がなくなったので下に落とされているもの。
角倉の屋敷は現在料亭所有となっており、長く非公開だった高瀬川源流となる名庭を拝見できるようになった。
店では、食事に来た客にこの庭を逍遥させてくれる。
がんこ二条苑 | 木屋町通へ流れ出す |
料亭を出た流れは、いよいよ高瀬川となって木屋町通に顔を出す。
開渠の橋たもとは元日銀の敷地で、今は島津製作所の資料館になっている。
一之船入跡 |
高瀬川となって流れ出してすぐに、一之船入がある。
もちろん現在は舟運には使用されていないが、往時を偲ぶ船が展示されている。
船溜りも、一部埋め立てられて狭まっているがここだけ残されている。
溜りに面して建つ町屋は風情たっぷりに出窓を出す。
押小路橋 | 押小路橋から下流望 |
押小路橋はもと長門橋といった。川の西に長州藩邸があったことによる。
上写真左、紅殻塀は船溜りに面する町屋、白の漆喰は広誠院で奥はホテルオークラ。
川相はこれからずっとほぼ同じものとなる。
幾松 | 佐久間象山・大村益次郎受難碑 |
少し下ると、右岸に洋学者二人の殉難碑が立つ。佐久間象山は幕末に、大村益次郎は維新後に、ここで刺客に遭った。
向かいには元勲・木戸孝允の妻・幾松の名を冠した料亭があり、このへんは幕末史にゆかりが深い。
高瀬川は浅い。
左写真は幾松前にいた青首、彼の水かきが隠れるくらいの水深。
ゆえに最近各地の川にいる放流の鯉はいない。たまに見るが、たいていどこかのお庭から逃げ出してきたもので、半身水から出たまま泳ぐも儘ならず流されていってしまう。
御池橋 | 御池橋から下流望 |
川は広い御池通を暗渠でくぐる。高瀬川御池橋は通りの南にある。
親柱もなにやら立派な橋たもとには、ここが元加賀さまのお屋敷であったことを記す碑が立つ。
池田屋事変の折には、加賀藩邸前で有為の若き長州藩士・吉田稔麿が立ち腹を切っている。
二之船入跡 | 堰板をはめる仕掛け |
御池橋のすぐ下には二之船入跡がある。
溜りは残されていないが、往時堰き板を嵌めて使った石柱が川中にぽつんと残されている。
姉小路橋 | 武市半平太寓居跡 |
姉小路橋という雅な名に反して橋は鉄製。しかし渡って東にはゆかしい料亭がある。
現在「金茶寮」として営業しているこの店は、幕末には「丹虎」という名で、土佐勤皇党の首領・武市半平太が京での拠点としていたところ。
すぐ隣には、同じ土佐藩の脱藩浪士で天誅組に参加した吉村寅太郎の居所跡もある。
三之船入跡付近 | 恵比須橋 |
三之船入跡には川端にテーブルを出した店があったりする。
この付近で川面に葉を垂らす柳は、「花咲き花散る宵も銀座の柳の下で」と歌われた、銀座に移植された「六角柳」が里帰りして植樹されたものという。
恵比須橋は旧名「納屋橋」、この先は三条通。
三条小橋 |
三条小橋を西にすこし行ったところに、旅籠・池田屋があった。
ここは幕末史を転回させた大事件・池田屋事変の現場。
町屋がなくなって以降はさまざまな業態の店となって、今は碑を残すのみである。
左写真は2006年、パチンコ屋だった時のもの。
上写真左の説明板は、かつてここに生簀が設けられ新鮮な魚料理を供したことを記してある。
これは生簀料理の発祥とされる。