寺川

大和川1次支流 ・流入先 〜大和川 ☆大和川水系一級河川 訓:てらかわ


寺川支流  流入順

北山川 ・粟原川 ・米川 (←銭川山田川戒外川中の川 (←百貫川) ) ・かがり川 ・十二川 (←かんじょう川)


 大和盆地南部を流れる、大和川中流部の支流。
桜井市鹿路(ろくろ)の鹿路トンネル付近に発し県道37号桜井吉野線沿いに北流、桜井市街地の南で西に転じ市街地を巻くように大きく曲がり、桜井市川合で粟原川をあわせてからは北西流し、橿原市十市町で米川をあわせ、ここから北上、磯城郡三宅町あたりから向きを北西に変え、磯城郡川西町吐田で大和川左岸に注ぐ。
一級河川の起点は桜井市鹿路辻本。全長23km、流域面積70平方km。


鹿路 鹿路の峠の向こうでは、吉野川が河谷を刻む。
ゆえにここは紀ノ川水系との大分水界となる。
流れはじめの寺川は、激しく岩を噛む渓流。
←桜井市鹿路

飯盛塚
 飯盛塚では、道と川しか無い谷が続く。
谷は深く、処々に荒瀬が見られる。
河畔には雑木が鬱蒼と繁り、川面に覆い被さる。
←↑桜井市飯盛塚

桜井市多武峰 談山神社参道の屋形橋
屋形橋下の渓流

 多武峰(とうのみね)は、御破裂山の懐に古社・談山神社を抱く地。寺川には宮への参道となる、珍しい屋形橋が架かる。
橋下には段滝が懸かり、涼しげな景を作り出す。
談山神社は、上代の大政治家・藤原鎌足を祀るやしろで、大化改新の発端となった、鎌足と中大兄皇子の故事を伝える蹴鞠祭が春と秋に行われる。また、裏山の御破裂山は、世に事あるとき鳴動して知らせると言い伝えられ、山鳴りのあとには朝廷の使いが来て幣帛を捧げるならわしがあり、長く続いたという。

下居
←↑桜井市下居
 下居(おりい)では、少し開けた谷にゴロ石転がる相を見せる。
このさまは民謡ふうの施頭歌に詠まれ、万葉集に収められている。
  梯立の倉橋川の石の橋はも 男ざかりにわが渡りてし石の橋はも
                     
(万葉集巻7-1283・柿本人麻呂歌集)
倉橋川は寺川の古称、歌意は青年期の妻問いを回想するもの、石橋は川中の石を踏んで渡る渡渉のこと。

桜井市北音羽 北音羽の水路

 北音羽から倉橋にかけて、川幅はずいぶん広がり、河床の石も減ってくる。
このあたりには飛鳥時代、祟峻天皇の倉梯宮(くらはしのみや)があった。
祟峻帝は、聖徳太子の父・用命天皇崩御のあと帝位に就いた大君で、僅かな在位期間ののち蘇我馬子によって弑逆された天皇である。帝位に就くにあたっても実兄・穴穂部皇子の横死、物部氏と蘇我氏の戦いなどあり、蘇我氏によって冊立された泊瀬部大君(祟峻帝)もやがて馬子と齟齬を生じ、大伴氏と通じ政争の果て暗殺される運びとなった。史上、天皇が暗殺された事実が明確な、稀な事件である。このあと女帝・推古が立ち、聖徳太子による摂政政治がはじまる。
倉梯宮は炎上し跡も定かではないが、祟峻帝の陵はこの地に鎮まる。

桜井市上之宮 天満神社の南・鴻の橋付近

 右手に鳥見山を見て、左手に古刹・聖林寺の小丘を見るあたりで、寺川は谷を出る。
川水は古い様式の石堰に堰かれ、まだ深いめの谷を刻んで桜井の市街を目指す。

橿原市東竹田町 竹田原橋から 左上流、右下流望

 橿原市に入ってすぐの竹田の里は、むかし大伴氏の領地があり、竹田庄(たけだのたどころ)と称された、今も一面の農地が広がる大和中原の穀倉地帯である。耳成高校やクリーンセンターなどの建築物があるほかは見渡す限りの平原で、三輪山や三山、はるか二上山まで大パノラマが得られる。
このあたりまで来ると、堤はかなり高く作られるようになっている。

竹田原橋から耳成山 橋標の万葉歌

 橋標には、大伴坂上郎女の万葉歌が刻まれている。

 うち渡す竹田の原に鳴く鶴の 間無く時無しわが恋ふらくは
                 大伴坂上郎女 (巻4-760)

 天平の頃の歌で、大伴氏の家刀自である郎女が稔りの季節に領地を訪れた際のもの。歌は竹田の情景を都の佐保の家にいる娘に書き送ったものとされる。母に歌を贈られた娘・坂上大嬢は大伴家持の妻。

田原本町千代 千宮橋から 左上流、右下流望
橋下手には堰堤が設けられている
千宮橋周辺で見られる生き物  左/鯉の群れ、右/カワウ

河口 左写真は、大和川に注ぎ込む寺川を対岸の大和川堤から見たもの。
合流はデルタを介して行われる。
この地は奈良盆地で最も低平な、川合の地である。
寺川合流の直前には佐保川が、この直後には飛鳥川や曽我川が相次いで流入してゆく。
←川西町吐田・安堵町窪田境、右が寺川

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