木津川  下流  相楽〜綴喜〜久世 京都府相楽郡、綴喜郡、京田辺市、城陽市  →木津川表紙


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 上写真は、奈良の若草山から南山城の木津川流域を遠望したもの。もう少し引けば、開橋も目に入る。
中央左端に映っている赤白ツートンの大煙突は京都市南部クリーンセンター(宇治川畔、淀の競馬場近く)、この施設の西で木津川は宇治川と合流する。

■ 相楽 そうらく

開橋 左は、北上をはじめた木津川に、泉大橋の次に架かる橋・開橋から下流を見たもの。
川は南山城の野をゆったりと流れる。右に左にくねくねと曲折し、河床に交互砂州を形成しつつ流下する。
広い砂の河原では、四駆車が走り回っている光景もよく見られる。
開橋付近の河原には、大阪城の石垣のため切り出され、輸送途中で放棄された残念石があるという。

相楽郡精華町下狛 左岸堤内地から水害防備林を見る
下狛 河畔林に登る朝日

 南山城では木津川堤は高く、その向こうに水害防備林が頭を覗かせている光景がよく見られる。
精華町下狛の、木津川上流浄化センター近くでは堤内地も一面の水田で、昔どおりの風景を見ることができる。
この竹林群は、近世には「御立藪」として保護されてきた水害対策の装置である。
暴れ川・木津川は古来洪水を繰り返してきた。また、南山城で木津川に入る支流群には極端な天井川が多く、昔から対策が講じられてきた。
流域の地名にも出水を表す古語起源のものが見られ、各所に洪水被害を伝える碑や犠牲者を供養した施設が残っている。
そして、昭和28年の集中豪雨と台風により南山城地方が甚大な被害を蒙ったことを契機に、上流域でのダム建設や河川改修が進んだ。

■ 綴喜 つづき

井手町東垣内・地蔵院から遠望した木津川流域
綴喜郡井手町浜 右岸から 左上流、右下流望

 山城・精華を過ぎると、綴喜郡に入る。綴喜は往古「筒城」と書き、継体天皇の宮に因む。
筒城宮跡は、現在同志社大学田辺キャンパスの中となり、碑が立っている。
山城と大和往還の古道・山背道は、この付近では木津川右岸の山裾をゆくものと、左岸の「つづきの原」をゆくものとがあった。
つづきの原はいま田辺市と名を変え、学研都市として開発が進んでいる。

京田辺市飯岡・玉水橋下手左岸堤から対岸望

山城大橋 井手町では、赤いローゼ橋の国道307号・山城大橋が異彩を放っている。
ここは昔草内の渡しがあったところ。
今も木津には橋が少ないが、流れ橋ですら新しく、近代以前は山本、飯岡、草内、富野、水主、岩田、上津屋などの渡船ばかりであった。
*山城大橋は井手町奈島−京田辺市草内間に架かる。

■ 久世 くぜ

 久世は古来より大和・京・近江間の要衝で、蜻蛉日記などの古典文学にも記述が見える地。
綴喜の一部を併せて市制移行後は、新興都市として開発が進む。

城陽市枇杷之庄 近鉄京都線鉄橋 城陽市・京田辺市境
城陽市枇杷之庄の右岸堤から 城陽市枇杷之庄右岸堤

 堤は民家の二階より高く作られ、堤外地には竹の防備林が残る。
河川敷には茶畑が作り出されるほか、処々に運動公園も設けられている。堤道は市民のよき散策路となる。

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