淀川  ■ 摂津と河内を境する北水  大阪府枚方市・高槻市・守口市・摂津市


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■ 枚方

枚方大橋 三川合流以降、淀川に初めて架かる橋がこの枚方大橋(枚方市三矢−高槻市大塚)である。
枚方大橋は国道170号の通る橋で、枚方と高槻を結ぶ。かつては渡船で結ばれたところで、橋たもとの堤上には「郵便屋渡し」の碑が建てられている。橋は歩いて渡ると疲れるような長大なもので、いよいよ大河となった淀を実感できる。

枚方大橋から上流方向 枚方大橋下の水面
ひらかた水辺公園
遠景はひらかたパーク
枚方大橋
国道170号外環状線

ひらかた水辺公園汀 枚方大橋のたもとには、両岸ともに公園が設けられている。ことに左岸側・枚方市三矢(みつや)地区に作られた「ひらかた水辺公園」は大規模で、淀川スタジアムと称する大きなグラウンドもある。その他広大な芝生が植えだされ、思い思いに遊ぶ市民の姿が見られる。水辺は護岸で固められているが、淀川舟運を再現する船着としてのデザインのようである。

水上バイク 公園でお散歩 川辺で焼肉

枚方大橋のレリーフ ここでは京・大阪間を行き来する客船に小舟を漕ぎ寄せてものを売る商売があった。売り声がふるっていて「餅食らわんか酒食らわんか絵草紙買いさらせ」と悪態をつきながら商いをしたという。ゆえに売り子の乗った船を「くらわんか船」と称する。このさまは淀川三十石船歌にも描かれている。言葉については、この在の民が大坂の夏の陣の折り家康を助けた功を賞され、地言葉での商いに粗言御免のお墨付きを頂いたという話を時代小説で読んだことがある。客のほうもしたたかなもので、食べた量を誤魔化すため川に茶碗を投棄したと伝え、茶碗のかけらは今も淀を浚えると出てくるという。

■ 鳥飼 摂津市

 この付近には、上代に設置された官製の放牧場「鳥飼牧」があった。
そのころ重要な輸送手段であった牛馬をここで養い、京へ送ったものである。平安京近郊にあった「牧」のうちでも鳥飼牧は朝廷の右馬寮が司る国営の牧であった。鳥飼自身の謂れはもっと古い「鳥養部」の居住地だったことともいう。

鳥飼仁和寺大橋 鳥飼中の右岸汀から上流方向
右岸の汀 右岸から対岸の点野を見る

 鳥飼仁和寺大橋(とりかいにわじおおはし)は八尾茨木線の通じる橋で、通行料は100円の有料道路(歩行者は無料)
優美な一本柱の斜張橋で、なかなか眺めが良い。
このたもとにも河川公園の大きいのがあり、人出も多い。公園の規模のわりに自然度は高く、汀は上写真の如く草深く河原にもヨシなどが広く生い茂る。ために野鳥の姿も多く、春には高ヒバリあがり、夏にはオオヨシキリの雄が巣を守り警戒する「ギョギョシ」の声が喧しく、秋にはモズが早にえを杭にくっつけて回り、冬には北からのカモたちが羽を休めている。ときには大きなキジも見られる。
汀は魚たちにもよい棲みかとなり、魚影も濃い。ゆえにいつもバス釣りが立ちこんでいるスポットでもある。
対岸の点野(しめの)には野草地区が広がる。

河川公園 公園内の野球場 堤上の露店

 淀川の河川公園にはたいてい広い駐車場が付帯するので、車での人出も多い。野球場へやってくる集団や、河原で焼肉の向きも見かける。
休日にはアイスクリームを売るおっちゃんも出張ってくる。

鳥飼中の右岸堤 堤内地を見下ろす

 淀もここまで下ってくると、堤が高くなってくる。上写真にあるように、二階の屋根より堤のほうが高い。鳥飼は淀と安威川下流部に挟まれているので、地区にはいまでも無数の悪水吐きの井路が巡らされている。
 治水に関しては、上代より堤を工事した記録が残されている。鳥飼仁和寺大橋北詰の堤下に「千本搗き歌」の碑が建ち、明治18年の「枚方切れ」大洪水を受けて作り出された大堤防工事に参加した土地の人々の労働歌を伝える。歌は、堤の地固め作業である杵打ちの際歌われたもの。

 ここでも、水上レジャーを楽しむ人々が出没する。ジェットスキーは沈が宿命なので汚いところではしたくないのが人情、淀の水質回復をうかがうことができるワンシーンであるが、水上でのエンジンつき乗り物に関してはそのものが水質悪化につながるものであるゆえ一定の規制は必要と思われ、複雑である。

■ 佐太の堤 守口市佐太西町

佐太西町の左岸堤

 国道一号線を京都に向けて走っていると、淀の展望が得られる場所がある。
守口市の寝屋川バイパスがそれで、近畿道をくぐって少しの間高架となっており、堤越しに淀の川面が見える。
このあとすぐに堤下の道となるのでほんのひとときではあるが、のびやかな水景はドライバーの目に優しい。
堤の向こうには河川公園があり、堤道は歩道なので、ジョギングの人や犬の散歩の人がたくさん出ている。

■ 庭窪 守口市大庭町・八雲北町

 鳥飼仁和寺大橋の2kmほど下流には大阪中央環状線の通る鳥飼大橋が架かる。脇には大阪モノレールも通じる。中央環状線のほかに近畿自動車道が並行して通り、脇にはガス管橋も渡る重要なライフラインである。産業道路としての性格が強く、ゆえに橋も頑丈なゲルバートラス形式のものが架けられている。
この車がひっきりなしに通る橋のたもとに、淀川でも規模の大きいワンド群が広がっている。

鳥飼大橋 守口市八雲北町 堤外地の地道

 枚方から下は、それまで堤上に通じていた京街道が国道一号線の南に行ってしまうので車道がなくなり、堤は歩道となる。この堤は近年高規格化され、高層住宅なども建てられている。いわゆるスーパー堤防である。
守口市八雲にも河川公園があり、ワンド群は鳥飼大橋の真下から始まっている。

庭窪ワンド

 昔に設置された水制が川を流れてくるくさぐさの寄り物を絡めとり、いつしか上に草が生え木が茂り、水制と水制の間には静水域ができあがる。
こうして形成された空間が「わんど」で、字は「湾処」を当てる。成立のプロセスにはほかに土砂を浚えたあとの水溜りや、河道の変遷によるものなどがある。
本流と分けられたここは生き物達の絶好の棲みかとなる。魚介にとっては貴重な産卵床となり、緑少ない大阪での鳥たちの楽園ともなる。
かつては淀川下流域に数百を数えたワンドも改修や開発等により数を減じたが、近年では汀整備の一環にワンドが取り入れられる例などもある。

■ 一津屋 摂津市一津屋

 摂津市一津屋(ひとつや)からは、神崎川が分流される。開削の歴史は古く、桓武帝の頃のことである。掘られた新川は三国川と称された。
当時、淀川河口部には流送土砂が堆積し船の通行が困難になることも多く、このことは紀貫之の「土佐日記」にも記述がある。新川開削以降、そちらが主たる舟運の舞台となった。
 一津屋の隣、東淀川区江口は西行法師と遊女・江口の君のエピソードを残す遊里のあった港町で、取り交わされた歌は新古今集に、ゆかりの寺が里に残っている。この説話は後世にも親しまれ、観阿弥により謡曲「江口」が生み出された。芭蕉や蕪村も江口の君をモチーフにした句や文を残している。

摂津市一津屋 下流方向 一津屋から対岸の守口市八雲を望む

一津屋樋門 左写真は神崎川取水口となる一津屋樋門。淀川右岸から取られる水が勢いよく流下する。
淀川にはいつも川遊びの人々が多く出ている。ウィンドサーフィンのセイルが風を受けて川面を彩り、汀にはせわしくロッドを振る釣り客が見出せる。爆音をたてて駆け回る水上バイクも、出る。
神崎川分流後、淀川は大阪市へ入ってゆく。淀川大堰を経て新御堂が渡る頃には、海の気配が濃くなってゆく。

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