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■ 豊里 大阪市東淀川区豊里

豊里大橋 豊里(とよさと)大橋は国道479号・内環状線の通る橋である。国道へはつい最近昇格した元の府道1号で、現在の橋は大阪万博の時に架けられたもの。A字型のタワーを二基持つ斜張橋で、特異な形からやじろべえ橋とも呼ばれる。古くは奈良時代に行基が架けた高瀬大橋がこのあたりにあったという。また昔淀川はここから南へ屈曲しており、往古には河口の州であった。

豊里大橋 右岸(北)から 豊里大橋 左岸(南)から
豊里大橋から上流方向 豊里大橋から下流方向

 豊里大橋の北の東淀川区にも、橋の南の旭区にも河川公園がある。川岸にはヨシやススキが茂るが、木の数は多くない。
川幅はかなり広くなり、流れも緩くなる。風の強い日などには、どうかすると上流向きに三角の白波が立っていることもある。
豊里大橋の架かる一帯は、昔は難波八十島と称される葦の茂る州や島が点在する湿地帯で、淀川末流の諸川が乱流していた。日本書紀の応神記には「大隅島」の記述があり離宮が置かれたとされるが、これは現在の東淀川区大桐付近とも言われる。大隅には国営の乳牛牧場が置かれたともいう。
旭区に残る太子橋の地名は聖徳太子に因むもので、太子の淀川堤視察の故事からとされる。
明治中期の淀川改修の際、豊里村は分断され川の北南に別れることとなった。

平太の渡し碑 豊里大橋が架かるまで、ここには渡船があった。最後は大阪市営の無料渡船というスタイルだった。堤にはこれを伝える碑が建っている。渡しの名は「平田」とも書き、謂れは地名からとも、渡船を営んだ人名からともいう。しかし平太渡しの名を世に知らしめたのは江戸期の歌舞伎で、河村瑞賢をバックにつけた平太が船取締の女房を謀殺するというストーリィで、派手な演出で大当たりをとり喝采を浴びたと伝わる。
ここは船の往来繁華な場所で、江戸期には船改めの川番所もあった。
また、この付近は「逆巻の難所」という水流の複雑な個所で事故多く、慰霊の仏が大桐に残されている。

■ 赤川鉄橋 大阪市東淀川区−都島区

 豊里大橋から少し下には菅原城北大橋が架かり、そのすぐ下に赤川鉄橋が渡る。
鉄橋は城東貨物線のもので、鉄道は単線。その脇に木製の「赤川仮橋」が設けられていて、なかなか奇妙な景色である。
本来複線として設計されたらしく、木橋は仮橋扱い。永らく地元の足として親しまれたが、現在貨物線の客線化工事が進んでおり、ほどなく仮橋は廃されるものと思われる。
※追記 おおさか東線延伸のため、2013年10月末をもって仮橋は通行止めとなった。

赤川鉄橋 赤川仮橋
赤川鉄橋から上流方向 赤川鉄橋から下流方向

 鉄橋の上流方向に見える橋は菅原城北大橋。これはかつては豊里大橋から長柄橋まで道路橋が無かったためひどかった周辺の渋滞解消に架けられた新しい橋で、有料道路。通行料から百円橋とも称される。架橋にあたっては設置個所の堤外地の自然環境を守るため工夫がなされ、葦原には橋脚が立てられていない。橋はまた左岸の城北公園をまたぐように渡されていて、車窓から園地が眺められる珍しい橋と言える。
下流方向に目を転ずると、淀川大堰が設備橋の向こうに望まれる。この堰ゆえに鉄橋下は完全な静水域となり、水はぴったり止まっている。

 赤川鉄橋まわりには人の気配が濃い。橋を渡る人はもちろん、川岸には釣り人や、時には大学の漕艇部の練習風景も見られる。
赤川仮橋は歩道橋で、自転車からは降りるよう標識が出ているが守っている人はあまり見られない。橋上に立つと、川風に混じって桁に塗られたクレオソートの匂いが微かに鼻につく。

城北ワンド 菅原城北大橋から赤川鉄橋にかけての左岸側にはワンド群が広がる。ここのものは張り出しが大きく、静水域が広い。
はじめ縦に張り出して設けられた水制だが、のちに先端部をつなぐ形で石積みが置かれた。故に本川との分離性が強く、本流の水質が悪化した折にも伏流水の湧くワンドで希少な淡水魚が守られることとなった。
現在もイタセンパラ・アユモドキなどの希少種が棲息し、トンボが産卵し野鳥がすだく貴重なビオトープである。

■ 毛馬 大阪市都島区・東淀川区・北区境

春風や 堤長うして家遠し

 上に掲げた句は江戸期の俳人・与謝蕪村の「春風馬堤曲」に収められた一句。
薮入りで故郷へ帰る娘の心情に老いた蕪村の望郷の念がレイヤーされた、絶妙の芸術作品である。
蕪村は毛馬(けま)村の生まれで、早くに故郷を離れ長く京に暮らした。夏に川を渡る心の高揚をうたった句や、増水した川の情景を描いた秀吟など、不思議と水に関わる作品を多く残した蕪村の詠む故郷・毛馬の情景はまことに趣き深いものである。

 蕪村の故地・毛馬は明治中期に行われた淀川大改修により大きく姿を変えた。これは10年以上を費やした大工事であった。南郷洗堰の設置、三川合流点での巨椋池からの分離工事、そして毛馬から放水路を西に掘り新淀川が作られることとなった。この際、毛馬には洗堰が作られている。
工事に際してはオランダ人御雇技師のデ・レーケが深く関わり、日本で初めて計画流量の概念が取り入れられた。
 時を経て昭和の終わりには淀川大堰が新設された。潮止め・水位調節の役割を持ち、ゲートは可動式で出水時には解放されるようになっている。
外観は長良川河口堰や利根川の大堰、紀ノ川河口堰とよく似ている。
大堰上の左岸には船の往来のための毛馬閘門が、堰直下には旧淀川となった元の本川・大川へ水を導く毛馬水門が設けられている。

都島区毛馬 長柄橋方面を望む 淀川大堰
淀川ゴルフクラブ 右岸堤から淀川通を見下ろす

大堰ゲート 大堰はふだん左右一枚ずつのゲートが少し上げられていて水を放出している。ここで逆巻いた水は長く泡の尾を引き、水質を告げている。魚道は階段式のもので、たくさんの釣り人がたかっている。堰下の川面では夕刻、ボラが跳ねるのが見られる。
右岸側にはゴルフ場が設けられ、堤を隔てて北には淀川通が走っている。堤内地は車道の北で更に低い。

■ 長柄 大阪市東淀川区・北区

 長柄(ながら)橋は古来より知られた橋で、さまざまなエピソードを秘めている。しかし難波長柄豊崎宮の頃とも、行基の架橋とも、弘仁の頃のものとも言い、所在地も未だに不明である。末流の一、中津川を長柄川と呼んだこともあり謎が多い。長柄橋を詠んだ古今集の歌にすら「作る」だ否「尽くる」だという論争がなされる始末である。しかし、渡船を許可する旨の官令が出ているので、橋は流失或いは損壊して長い間無かったものと推測される。
 長柄橋の逸話で最も知られているのは人柱伝説である。長柄橋を作る際、高波などで工事が難渋を極め、竜神の怒りを鎮めるための人柱を立てることが決められた。この人選について垂水の長者が条件を提案するが、言い出した本人が条件に一致してしまい人柱に決まってしまうのだった。長者の娘はその後悲しみのあまり口をきかなくなるという後日譚があり、有名な「雉も鳴かずば」の歌が出てくる。

長柄三橋 阪急千里線
長柄橋 長柄橋 北詰から

 いま、長柄橋の上手には水道橋や阪急の鉄橋が渡り、三つの橋がほぼ並行して渡る賑やかな景となっている。
現在の長柄橋は昭和の終わり頃架けられたもので、籠を乗せたような珍しい形をしている。橋を南に渡ると天神橋筋である。

淀川堤(右岸) 堤の階段 淀川通

 堤内地から見上げる淀堤は高い。堤には処々に階段が設けてあり、水辺へと人を誘う。堤の法面は一面雑草に覆われ、ムクドリやスズメなどが大挙してやってきて草の実を啄ばんでいる。
長柄橋の北詰、淀川通を隔てて向こうには柴島浄水場がある(淀川通の写真右手)。大阪市で最も歴史のある水道施設である。

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